金 言
「あなたがたは、私たち主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(コリント人への手紙第二8:9)

説教題 「貧しくなられた主イエス・キリスト」
聖 書 コリント人への手紙第二8:9、イザヤ書53章
説教者 井上賛子師

1.主はあなたがたのために貧しくなられた

 イエス様のご生涯は、徹底して貧しさに生きるものであった。それは誕生の時から始まっている。イエス様が生まれた所は馬小屋で、貧しいナザレの大工の息子であった 。弟子たちと共に宣教の働きをしていたときも、「人の子には枕するところがない」と言われ、決して豊かではなかった。それでも「主は富んでおられた、豊かであった」とある。それはイエス様が神のひとり子であるから「豊か」なのである。神のかたちであった、神と等しくあった、豊かな神のみ子が、神としてのあり方を捨ててくださった。(ピリピ人2:6~11) 神なる方が人となられたということなのである。富めるお方が貧しくなられた。そして十字架の死をとげてくださった。これがキリストの引き受けられた真の貧しさであった。それは、朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの(1コリント15:42~43)であり、罪人を救うために、罪人となられたということである。
 そして、それはただ貧しくなられたとか、苦しまれたということではない。イエス様は「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」(イザヤ53:3)た。そして、世の人は、そんなイエス様を「神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(4節)思った。しかし、本当は「彼は私たちのそむきのために刺され、私たちのとがのために砕かれたの」(5節)である。ここに、主が貧しくなられたことのまことの意味がある。

2.私たちは貧しい存在

 「あなたがたが豊かになるため」とあるが、これは、あなたがたは本来、貧しいということ。貧しいから豊かになることが必要なのである。私たちの持っているものは何であろう。私たちが「自分のものだ」と思っているものが、意に反して失われる時、自分のものではなかったと気づかされる。私たちの命でさえも自分の思い通りにならない。私たちが確実に持っているものは「罪」と「死」だけである。人間の貧しさとは、こういうことである。私たちの貧しさの中にイエス様は来てくださった。私たちの罪を代わりに担い、死を引き受けられた。ご自身が貧しくなることによって、私たちを「豊か」にして下さった。
 ルターは、このことを「喜ばしい交換」と言っている。キリストの豊かさと私たちの貧しさ、キリストの義と私たちの罪とが交換されたのだという。イエス様が貧しくなったのは、その豊かさを私たちの貧しさと交換してくださったからである。私たちはそのことによって救われた。

3.富む者となる

 「イエスの名によって、…すべてが膝をかがめ」「イエスの御名にひざまずき」「その御名のもとに、すべてのものが天でも地でもひざまずき」(ピリピ2:10~11)とあるように、全宇宙の全てのものが主のみ名の前にひざまずくことを通して、救い主として礼拝し讃美する姿が描かれている。そのようなお方が私たちのために、先にひざまずいてくださったことを感謝しよう。
 キリストの貧しさによって富む者となるとは、キリストの救いにあずかることである。そうしてキリストの愛と恵みに富ませていただこう。