金 言
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神」
第2コリント 1:3
説教題 「苦難の中にある慰め」
聖 書 第2コリント1章1節~11節
説教者 井上賛子師
1.苦しみをどう受け止めるのか
色々な出来事、特に苦難の時に「なぜですか、どうしてこのようなことが?」という問いは、どこまでいっても、解決を見いだせず、堂々巡りをする。
2.苦難を通し真の慰めを経験する 4節
深い苦しみ、悲しみのただ中に、慰めの神が近くに居てくださる、私の傍らに来て、とりなしてくださる。信仰とは、憐れみ深い父なる神、慰めに満ちた神を、キリストの十字架を通して信じることである。もうだめだと思う時、慰めの神は私の心に触れてくださる。
3.キリストの苦難があふれる 5節
神の慰めが、キリストの救いによるものであり、キリストが負われた苦難による慰めであるから、その慰めのあるところには、キリストの苦難が満ちあふれる。そして、私の苦しみがキリストの苦しみと結び合わされて、キリストの苦しみの足りないところを私が補わせていただいているのだ(ピリピ1:29)とパウロは言う。
4.私たちが苦しみにあうとすれば、あなたがたの慰めと救いのため 6節
自分たちが福音を伝えて行く中で、出合う様々な苦難は、あなたがたの救いと慰めのためである。パウルはこうして伝道して行った。福音というのは苦難を伴って伝わっていく。どこかで苦難にあっているとすればそれによって、だれかが慰めと救いを受けていると思い、また自分たちが慰めを受けている時は、それを聞いて祈っている彼らも慰められる。自分が苦しんでいる時に、コリントの人々も共に苦しみ、自分が慰められている時に、共に慰められている(7節)苦難の中にあると、ただ一人闇の中に取り残された感覚になる。パウロはあなたが苦しむとき、それは私の苦しみ、あなたが慰めを受ける時、それは私の慰めであり、教会は慰めの共同体である。
5.自分の限界を知る 8節
苦難は自分の弱さ、限界を知る機会となった。パウロもはじめは、苦難にあって「自分自身を頼りに」にして、それを乗り越えられると思っていたかもしれない。しかし、彼は自分ではどうにもできない、自分で乗り越えられない状況に置かれた。自分自身が頼りにならないということを知ったのである。自分の貧しさを知り、ただ神によって生きるということこそ、彼が受けた慰めの内容であった。
6.神を頼みとするに至った 9節
生きる望みを失い、こんなに苦しまなければならないなら、死んだほうがましだと思う程の状況。9節、口語訳では「神を頼みとするに至った。」となっている。「至った」にはプロセス、過程がある。どんなに神を信じ切ることが大切だと分かっていたとしても葛藤があった。「私はもうだめだ、死ぬばかりだ」という恐れ、絶望と、「神はここから私を救ってくださる」という信頼とが交差するような心。そういう苦悩の果てに、彼は死人をよみがえらせて下さる神がおられるということを信じた。苦難の中で神への真実な信仰に至る。
7.これからも救い出してくださる 10節
そして、慰めを知るというのは、次に来る苦難に耐える力となる。(7節)伝道者パウロの苦しみ、慰めが、彼らの慰めとなり、今度は苦難にあう時に人々の力となる。神に慰められる、愛されていると知っている人は、この苦難も神の慰めがあるから耐えられる。またこの苦難も誰かの慰めになると信じる。それはまた一度限りではない。(10節)過去も現在も未来にも、神の慰めが私たちにはある。