金言
「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)

説教題 「平和の君として」
聖 書 ゼカリヤ9:9~10
説教者 井上義実牧師

 2022年度船橋栄光教会担任教師として栗本高仁師・佐和師をお迎でき何より感謝である。コロナ禍、戦争、自然災害が続き、終末の思いも深いが、船橋栄光教会の新たな歩みに祝福が注がれ、主にある希望をいだいて進もう。本日は担任教師任命式、運営委員任命式、CS教師任命式を持つ。また教会暦では棕櫚の主日であり、受難週が始まる。

Ⅰ.イエス様の柔和さを持つ

 棕櫚の主日には、イエス様が多くの群衆の歓迎を受けられながらエルサレムに到着された。群衆は棕櫚の枝を手にし、上着を道に敷き、賛美する。エルサレムを前にされたイエス様の憐みの涙(ルカ19:41)、宗教的指導者たちのイエス様への憎しみ(ヨハネ12:19)を聖書は記している。この日、イエス様が子ろばに乗って到着されることを約500年前のゼカリヤを通して預言されていた。軍馬ではなく、ろばに乗られたことは、イエス様の柔和さと平和が示されている(マタイ11:29「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」)。柔和と反対にあるものは高慢、自己満足である。柔和は弱さ、受身と混同されやすいが、柔和は内にある強さ、力を持っている。神様に反逆したイスラエルの民を40年荒野で導いたモーセは柔和を体現した人であった(民数12:3)。イエス様を通して、モーセのように困難の中にあっても忍耐深く、祈り深く、御心に従って行く力をいただこう。  

Ⅱ.イエス様の平和を持つ

 10節は「わたしは…させる」とあるように、王として来られるメシア、イエス様の言葉になる。戦車、軍馬、弓を絶つとあるが、時を超えて現在のウクライナでの戦争が止まることを祈る。しかし、ここでの平和(シャロームが使われる)とは、ただ戦いがない、争いがないということではない。シャロームは社会、政治、生活、霊的にも満ち足りた状態を指している。シャロームが表わす平和は人や世から出るものではなく、神様から出て神様に属するものである(イザヤ45:8)。ゼカリヤの平和の預言はゼカリヤの生きた時代、続く未来を越えて、終末へとつながっている(14:1「見よ、主の日が来る」主の再臨の時)。ゼカリヤの終末に向かう預言は、ヨハネの黙示録と同じく激しい戦いが記されている。今のこの時代の戦いも、やがて終末を迎える時の戦いも起こるべきことではあるが、その時間は限られている(マタイ24:22参照。)。この戦いの後に、私たちの世界が崩れ去って、新天新地が完成する。神様が支配される永遠の世界に、完全な平和が表わされる。私たちはその日まで戦わなければならないが、神様との平和を持ちながら神様によって守られていく。

Ⅲ.イエス様の力を持つ

 ゼカリヤのメシア預言にはイエス様の柔和さ、平和が子ろばによって示されている。柔和さは弱さではなく、内に強さと力を持っていること、平和には神様の完全さが表わされていくことを話した。イエス様の支配は「海から海へ、大河から地の果てに至る。」と最後に記されている。今日は棕櫚の主日で、今日から受難週が始まる。イエス様は宮で教え続けられ、祈られ、木曜日の洗足、最後の晩餐、ゲッセマネの捕縛、不法の裁判、金曜日の十字架の死と葬りへと歩まれる。この間、イエス様は周囲に翻弄され、無理やり十字架にかけられ、志半ばの死を遂げられたのだろうか。もちろん、答えは否、それ以外にない。もしイエス様の死がそのようなものなら、非業の死であり、お可哀想にという悲しみしか残らない。イエス様は十字架を選ばれたのであり、十字架に向かって決然と進まれた。イエス様の十字架の上での七言は輝き続けている。第6の言葉(ヨハネ19:30「完了した」)について、C.H.スポルジョンは言う「イエスが『完了した』と言われた時、聖書は最初から最後まで、律法も預言も、ことごとくイエスにおいて完了したのです。…」。神様の全ての人へを救うという御心がイエス様によって成就した。この世の悪、妨害、無理解、無関心、あざけり、虐げ全てを越えてイエス様は私たちの救いを完了された。この御方を私たちは最も親しく、最も近く持つことができる。

 私たち各々の歩みに困難、戦いはある。イエス様は悪が渦巻く中も、柔和と平和を持ち続けられた。十字架で完成と勝利を宣言された。私たちも忍耐を持ち、神様の最善を待ち望みつつ、共に励まし合い、この恵みを表しながら進もう。