金言
イエスは彼女に言われた。『マリア。』彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラボニ』、すなわち『先生』とイエスに言った。」 (ヨハネの福音書20:16)

説教題 「名前を呼んで下さるイエス」
聖 書 ヨハネの福音書20章11~18節
説教者 栗本高仁師

 イースターおめでとうございます。今年もイエス様のご復活を心からお喜びします。しかし、聖書を見るとき、イースターの朝は喜びから始まったのではありませんでした。むしろ悲しみと絶望から始まっています。

1)何も分からないマリア

 今日の箇所は、マグダラのマリアが「墓の外にたたずんで泣いていた」(11節)というところから始まります。彼女の涙の理由は、イエス様が十字架に架けられたという悲しみだけではありませんでした。何と葬られたはずのイエス様の遺体がなかったのです(1節)。
 泣きながらも墓の中をのぞき込んだマリアは、二人の御使いと出会います。「なぜ泣いているのか」という彼らの問いかけに対して、マリアは、「主がどこにいるのか分からない」(13節)と涙の理由を言います。イエス様が復活されたことが、マリアには分からないのです。
 御使いたちとのやりとりの後、マリアがふと後ろを振り向くと、ある男性が立っていました。実はそれはイエス様だったのです。マリアは、墓が空であるのを見ただけでなく、実際に復活されたイエス様も見ました。しかし、それでもイエス様が復活されたことが分かりません。しかし、これはマリアだけの問題ではなく、多くの弟子たち、また私たちの問題でもあります。まさに、私たち人間は「見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない」(マルコ4:12)存在なのです。

2)近づき、名前を呼んでくださるイエス様

 何も分からなかったマリアに対して、イエス様はどのような反応を示されたでしょうか。
 まずイエス様は、御使いと同じ質問をします。マリアはイエス様を園の管理人だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」と言います。マリアは、イエス様の声を聞いてもなお、イエス様であることが分かりません(15節)。
 しかし、イエス様は彼女を叱責なさらずに、優しく「マリア」と名前を呼ばれます。その一言が、彼女の目を開きます。そして、彼女もいつものようにイエス様のことを「ラボニ(先生)」と呼びかけます。
 私たちも、目の閉ざされた、耳の閉ざされたものです。しかし、イエス様は、このイースターの朝にマリアにしてくださったように、私たち一人ひとりの前に現れてくださり、名前を呼んでくださいます。何度も何度も「分からない」と言ってしまう私たちかもしれません。しかし、イエス様は愛想を尽かすことなく、個人的に私たちと関わってくださるのです。

3)新しい使命をいただく

 悲しみと絶望から喜びに変えられたマリアに、イエス様は新しい使命を託されます。それは、御子イエス様がこれから父なる神様のもとに上る、ということを、弟子たちに告げるという使命でした(17節)。現代では考えられませんが、当時、女性の証言は全く信頼されないものでした。しかし何と驚くべきことに、女性であるマリアが、あの十二弟子たちに先んじて、最初の使徒とされたのです。
 マリアはイエス様に言われた通りに、弟子たちのもとに行き、主を見たこと、そしてイエス様に言われたことを、伝えたのです(18節)。イエス様に名前を呼ばれ、招かれた私たち一人ひとりも、同じ使命をいただいています。伝道は聖書の知識がないと難しいと考えてしまいます。しかし、大切なことは、このマリアがしたように、イエス様と出会った「マイストーリー」を、そのまま証言すれば良いのです。

 ご復活されたイエス様は、今も生きておられ、あなたと個人的に出会ってくださいます。あなたの名を呼ばれるイエス様の声を聞かせていただきましょう。また、イエス様と出会った証言者として、新しい使命に生かされましょう。