金言
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)

説教題 「その名にあらわされる本質」
聖 書 出エジプト記3章13~22節
説教者 栗本高仁師

 「何を語るのか」その言葉の内容はもちろん大切ですが、「誰が語るのか」ということも同じくらい重要なことです。

1)名前を明かされる神

 神様はモーセに「わたしがあなたをエジプトに遣わし、あなたがイスラエルの子らを導き出すのだ」と言われました(10節)。それは「わたしがあなたとともにいる」(12節)という保証付きでしたが、モーセはまだ恐れていました。それは、同胞イスラエルの民に対する恐れです(2:14)。まさに、モーセにとって「だれの名によって遣わされたのか」は最重要事項でした。それゆえに、彼は神様に「私は彼らに何と答えればよいのでしょうか」(13節)と問います。もちろん、彼はこのお方が「父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であることは知っていました(6節)。しかし、まだその「名前」を知らなかったのです。
 今では、比較的簡単に名前を知ることができます。しかし、当時「名前」を明かすというのは、とても特別なことでした。そのような中、何と神様はモーセに対して即答します。「わたしは『わたしはある』という者である」(14節)と。神様は名前を教えてくださるほどに、私たちにご自身を知らせてくださる(自己啓示)お方なのです。その幸いを覚えましょう。

2)意志をもって働く神

 神様はモーセに同じことを繰り返します。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、…遣わされた』と」(15節)。先ほどは、「『わたしはある』という方が…遣わされた」(14節)とありました。実は私たちが使っている呼び名である「主」(新改訳2017では太文字の主)は、「わたしはある」という名を表しているのです。「名は体を表す」とは有名なことわざですが、この不思議な名前にはどのような意味があるのでしょうか。
 神様ご自身が、その名前を明かされるとき、そこで起きる出来事と深く関わっています。そう考えるなら、この名は、単に「存在する」というだけの意味ではありません。確かに神様はご自身だけで存在できる唯一のお方です。しかし、「わたしはある」というのは、それ以上に豊かでダイナミックな意味があります。そこには、何としてでもイスラエルの民を救い出したいという「神の意志」が表されているのです。だからこそ、念を押すように言われます。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる」「あなたがたを…解放して、…導き上ると言った(口語訳では「携え上ろうと決心した」)」と(16-18節)。まさに、「ご自身の意志をもって、行動する」、それが「わたしはある」という方である「主」の名に表された本質なのです。この主ご自身が「わたしが、あなたとともにいる」と私たち一人ひとりにも約束してくださるのです。

3)先を見通される神

 「意志」を持って行動される主は、先をも見通される方です。神様は、イスラエルの民たちは受け入れてくれるが、エジプトの王は受け入れてくれない、とモーセに告げます(18-19節)。そのことを「わたしはよく知っている」(19節)と。「わたしはある」と言われる方は、私たちが進む道をよくご存知なのです。そこには困難が伴います。しかし、「わたしがこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、…彼はあなたがたを去らせる」(20節)と約束してくださったように、最終的には主が御手をもって「ことを成してくださる」のです。
 実は、新約聖書にも「わたしはある」と言われた方が登場します。それは、教会のかしらなる「イエス・キリスト」です(ヨハネ8:58)。私たちは先行きが見えない時代に生きています。しかし、「わたしはある」と言われた「キリスト」が私たちのかしらとして導いてくださるのです。

 「わたしはある」といわれる方は、私たちにその名を明らかにしてくださるお方であり、意志をもって私たちとともに行動してくださるお方であり、行く道をよくご存知の方であります。この主を見上げて今週も歩んでいきましょう。