金言
「さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」(出エジプト17:6)
説教題 「試みる者と共にいる主」
聖 書 出エジプト記17章1~7節
説教者 栗本高仁師
三度目の正直とは「三度目の挑戦の時こそ、確実に期待通りの結果となる」という意味です。イスラエルの民は、荒野での訓練において「三度目の正直」ということが期待されるような経験をします。
1)同じことを繰り返す
イスラエルの民は、シンの荒野を旅立ちレフィディムに宿営します(1節)。しかし、そこにはまたもや飲み水がありません。シュルの荒野とマラ、またシンの荒野での経験を思い起こさせます(15:22-23)。このところを注意深く見ると「主の命により」(1節)と書かれています。つまり、主がこの「レフィディム」へと導かれたのです。主は、あえてこのような「文句が出そうなところ」へと導き、民への「テスト(試み)」を続けておられるようです。まさに「三度目の正直」という状況ですので、民も主に信頼できると私たちは想像するかもしれません。しかし、彼らは再びモーセに不平を言い、彼と争います(2-3節)。シンの荒野で食べ物がない時(16:3)と同じように、「私たちを渇きで死なせるために、エジプトから連れ上ったのか」と言うのです(3節)。彼らは三度目の正直どころか、以前と全く変わっていません。
2)主を試みることの危うさ
イスラエルの民は「また同じ失敗を繰り返すのか」と思ってしまいますが、民も指導者モーセに対して同じ気持ちを抱いていたのでしょう(また同じような水のないところへと導いたのか?!)。しかし、これは同時に「主への試み」でもありました(2節)。なぜなら、モーセは主が遣わしたリーダーだからです。モーセへの不平は、主への不平なのです(16:8)。彼らは「テスト」を受けている者でありながら、反対に「主を試みた」のです。これは非常に危うい行為です。なぜなら、民は自分の願った通りのことを叶えてくれる「体のいい主人」として、主なる神を見ているためです。私たちも、そのように主を試みていないだろうかと問われます。
民たちは、石で打ち殺そうかという勢いでモーセに迫っていました。そのため、モーセは主に叫びます(4節)。この叫び方に、モーセと民との大きな違いがあります。民たちは「自分たちがして欲しいことを要求する」だけですが、モーセは「主に聞く」という姿勢を崩さなかったのです。私たちも大変な試みを受ける時があります。そのような時「主に叫ぶこと」は間違いではありません。しかし、私たちはどんな風に叫ぶでしょうか。民のように自分たちがして欲しいことを一方的に命じるのか、それともモーセのように自分たちはどうすればよいでしょうかと主の御心をお伺いするのか、そのことが問われているのではないでしょうか。
3)主は三度目も「ともにおられる」
主はモーセの叫びに応えてくださいます。主はあのナイル川を打った「神の杖」を手に取って、ホレブの岩に行くように言います(5-6節)。ホレブとは、最初に神がモーセを召し出した特別な場所です(3:1)。主がそこで約束されたことは何だったでしょうか。「わたしが、あなたとともにいる」ということです(3:12)。その後、モーセが手に持っていた「杖」を用いて、主はご自身のわざを目に見えるかたちで明らかにしてくださいました(3:2,17)。つまり、主はホレブでの経験を想起させつつ、「わたしがあなたとともにいて(=ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ;6a節)、わたしのわざを行う(=その岩を打て。岩から水が出て…;6b節)」と宣言してくださったのです。
これは、主を試みた民たちに対する主の応答でもあります。彼らは「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って主を試みました。しかし、主は確かにモーセと「ともにおられ」、モーセのゆえに民とも「ともにいて」くださったのです。
主から見れば、これは三度目の正直として彼らに与えた「テスト」でした。彼らは三度目も同じ失敗をします。しかし、主は三度目も彼らの必要を満たされたのです。忍耐を持って私たちとかかわってくださる主に私たちはどのように応答するでしょうか。