金言
「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありません か。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」(コリント第一10:16)

説教題 「聖餐の喜び」
聖 書 使徒の働き20:6~12
説教者 井上義実牧師

 先週は世界聖餐日を迎えた。船橋栄光教会では1週遅れで本日の礼拝で聖餐式を執り行う。プロテスタント教会で聖礼典はイエス様が守るように教えられた洗礼、聖餐の2つである。洗礼は実際の方法で2つに分かれるが教団ではどちらも良しとしている。聖餐は考え方も、持ち方も幾つもの形態がある。聖餐は理解に幅があるが、それゆえに聖餐を世界中で共にする世界聖餐日は大きな意味がある。

1)初代教会から続いている

 使徒の働き20章はパウロの第3次伝道旅行の帰路に当たる。読んでいただいたのはパウロがマケドニアのピリピから船出して、小アジアのトロアスに着いた箇所になる。パウロは7日間この町に滞在し語り続けた。その集会は7節「パンを裂くために集まった」とある。
さて、使徒の働き2章は聖霊降臨によるエルサレム教会の誕生を記す。2:42「使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」、2:46「家々でパンを裂き」とある。この「パンを裂き」とは聖餐式を表し、教会の始まりから守られていた。ここで、パンだけですかと問われるかも知れない。コリント第一10:16には、「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」とある。イエス様の御体を表すパンと共に、イエス様の御血を表すぶどう酒は一つである。「パンを裂き」という言葉にはぶどう酒の配餐も含まれている。

2)主の御体、主の血によ

 「パンを裂く」とは聖餐式全体を表している。続いて、イエス様の言葉からもパンが象徴になることが分かる箇所を見ていこう。
ヨハネ6章でイエス様は5千人の給食の奇跡を行われた。このことから、イエス様が天からのまことのパンであるとの話をされた。この奇跡の後、ユダヤ人たちは先祖が荒野の旅で食べたマナを引き合いに出した。天からのマナによって養われたことは大きな奇跡であった。イスラエルの人々が特別であることを示す大きな祝福であった。この奇跡は荒野の40年間という限られた期間、荒野で導かれた民だけという限られた人々に対してであった。
イエス様はここで「わたしはいのちのパンです。」と繰り返されている。イエス様は限られた救いではなく、私たち全てにとって、完全な救いのためのいのちのパンとなられた。続いて、イエス様はこの救いが、ご自身の肉体と血によることを明言されている。ヨハネ6:54・55には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」とある。イエス様が十字架にかかられることを予見されており、御自身の裂かれる肉体、流される血潮によることを告げられている。

3)喜びの交わりに導かれる

 今朝の聖書箇所に戻って、使徒の働き20章にはトロアスの集会の最後の夜、ユテコという若者が転落し、事故死することが出てくる。パウロはこの死んだ若者を抱え上げて復活の奇跡を表した。昔の預言者たちも、ペテロもヤッファのタビタをよみがえらせた。パウロの出発の日が悲しみの葬儀になる所が、大きな主の御業への感謝と喜びの日に変わった。このできごとの後も続いて集会は行われ、パンを裂く(聖餐)ことも執り行われた。この集会で、聖餐式で神様への感謝と賛美がささげられたことだろう。ここまでパンを裂く(聖餐)ことを見てきた。聖餐式はイエス様の十字架の受難・受苦と直接に結び付いているので、私たちは痛みを覚え敬虔な思いにあることは当然である。しかし、イエス様の十字架が私たちの救いの成就であったということにおいては、聖餐は喜び、祝うこととも受け止められる。この夜のトロアスの集会はイエス様による救いという心と魂の内になされた喜びと、死から命に移された若者を喜ぶ祝いとなり、聖餐に相応しいものであった。

聖餐は救いの感謝、罪の赦しと潔さに与る恵み、神の民とされた者の交わりの確認、奉仕と献身に導く。教会の内側を強くし、教会の外へと宣教の働きを進めていく力となる。