金言「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。(ヨハネ4:23)

説教題:「真の礼拝者として」
聖 書:ヨハネ4:19~26
説教者:井上義実師

 2026年に当たって「真の」という言葉が心に留まります。私たちは神様の前に、真の信仰者、真の祈祷者、真の賛美者でありたいと願います。… これらの中心であるのは真の礼拝者でしょう。私たちは週毎の礼拝を献げる礼拝者であり、天を目指す巡礼者であることを覚えます。
 そのように思い巡らしながら、ヨハネ4章が開かれてきました。イエス様がサマリアのスカルの井戸辺で一人の女性と出会われます。永遠の命に至る水という重大な話をイエス様はこの女性に語られました。イエス様を通して与えられる永遠の命の水は、私たちを神様の救いに導きます。永遠の命の水に与かる喜びと感謝は、自らのみならず周囲をも潤していきます。続いて、礼拝についてイエス様はこの女性に語られます。

1)イエス様を中心にする礼拝

 この女性は、初対面のイエス様が、自分の私生活をよくよくご存知だったので、あなたは預言者ですと言っています。彼女はイエス様が、少なくとも神様が遣わされた神の人であることを理解していました。そして彼女は、この対話の中で、イエス様が預言者をはるかに越えた、救い主メシアであることを知っていきます。
 この女性が聞いた命の水の話は、神様の永遠につながる重大な話でしたが、続いて、彼女が礼拝について尋ねていることにも驚きます。私たちは、普段考えていないことを、突然に話し始めることはありません。この女性が、何時も礼拝とは何かということを考えていたからこそ、イエス様との突然の出会いでも、礼拝の話を切り出せたのです。この女性は神様について、信仰について一生懸命に受け止めていた人です。
 サマリア人の「この山」(20節)とは旧約聖書に出てくるゲリジム山になります。サマリア人はゲリジム山に宗教的な中心を置いていました。ユダヤ人の宗教的な中心は、シオンの丘エルサレムの神殿です。どちらが正しいのか、間違っているのかという話です。私たちの周りでもどちらが優れているか劣っているか、本物か偽物かなど、何にでも問題になります。
 礼拝で問われるのは場所なのでしょうか。旧約聖書の時代は、確かに犠牲をささげる礼拝の場所が大切で規定されていました。しかし、今や、イエス様を崇める礼拝は、場所を超越しています。世界中どこであったとしても、信仰者の集まり、正しく神様が礼拝されているのであれば、公同の礼拝となります。
 私たち、荻窪栄光教会の礼拝も神様が喜んで目を留めてくださり、私たちの肉体の目では見えませんが、主イエス様が真中にお立ちくださっています。私たちの礼拝に、神様が栄光を表してくださっており、私たちが毎週、その礼拝に与っていることは、何と光栄なことではないでしょうか。

2)御霊と真理による礼拝

 ここで、礼拝の本質をイエス様は問われています。ユダヤ人は律法に基づいて犠牲や儀式をささげました。やがて時を経て、信仰は薄れ、礼拝は形だけになり、主の前にひざまずき、真心をささげる礼拝は失われてしまいました(イザヤ1:11~15他)。イエス様は「まことの礼拝」とは「御霊と真理」によると言われました。
 御霊を、神様を信じる私たちはいただくことができます。ヨハネ7:38でイエス様は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると言われました「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(ヨハネ7:37~39)。イエス様を通して、神様からいただくこの水は聖霊です。聖霊が豊かに注がれることはイエス様への信仰から始まります。
 そして、「真理」とは神様からいただく霊的な、不変の真理です。礼拝は神様から聖霊をいただく機会となり、私たちを神様の霊的な真理に導くものです。神様が聖霊を注がれ、真理に導かれる礼拝こそ、私たちの全身全霊でささげるものです「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:1・2)。
 礼拝には神様が備えられ与えてくださる、天から地上に降ってくるものがあります。私たちの応答として、地上から天に向かい昇っていくものがあります。私たちはこの1年も「御霊と真理」をもって神様に礼拝をささげましょう。

3)真の礼拝者が献げる礼拝

 この女性は、ここに至ってイエス様をキリスト・救い主と知ることができました。自分の私的な生活に光が当てられ、公的な生活である礼拝について語られた後のことでした。私たちも先ずイエス様との出会いによって変えられ、個人的な変革がなされます。次に、信仰によって、真の礼拝者として導かれるという経験をしていきます。礼拝は儀式を超えています。礼拝は義務だからではありません。生ける神様に触れていく豊かな恵みに満ちている場所と時間なのです。
 礼拝は、集まって共に生ける御言を分かち合うという説教「見えない言葉」、イエス様の臨在と救いの事実を身に受けていくという聖餐「見える言葉」を大事な柱としています。この公同の礼拝は、場所を問うものではありません。どこにあっても真の礼拝者によって、真の礼拝がささげられます。御霊と真理によって、この1年も、私たちの礼拝が真の礼拝者が集う、真の礼拝となるように、さらに豊かなものとなり、そこに魂が集うように、心を一つにして礼拝をささげましょう。
 
 この女性はイエス様と出会った感動を町の人々に証しました。自分自身が変えられた、満たされ、潤されたという体験をいただいたからです。真の主を礼拝することができる喜びによって、彼女は動かされ、押し出されていきました。今、私たちはこのような感動を持って礼拝をささげているでしょうか。その感動は私たちを証しする者、イエス様を指し示していく者に変えていきます。
 私たちも真の礼拝者を求めておられる神様に応えていこう。