聖 句「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(ルカ8:50)

説教題 「ただ信じなさい」
聖 書 ルカの福音書8章40ー42、49ー56節
説教者 栗本高仁師

 私たちにとって信じることは簡単ではないと思います。しかし、そのような中にあってイエス様は私たちに力を与えてくださいます。

1)必死な願いの中から

 イエス様はいつもおられたところと反対側に行っておられました(8:22-39)。そこから「イエスが帰って来られ」た時のことです。そこには「イエスを待ちわびていた」多くの人々がいました(40節)。そのような中で、一人の人がイエス様のもとにやって来ます。彼の名は「ヤイロ」で「会堂司」でした(40節前半)。おそらく彼はイエス様の姿を見るや否や、鬼気迫る表情で走り寄ってきたことでしょう。なぜなら、彼の「一人娘が…死にかけていた」ためです(42節)。そして彼は「イエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した」のです(41節)。
 彼の中にはどのような思いがあったでしょうか。それは、イエス様なら必ず癒すことができるという絶対的な信頼というより、この方なら何とかしていただけるかもしれないという、藁にもすがる思いであったのではないでしょうか。彼はユダヤ教共同体の中である程度地位があり、彼の仲間の中にはイエスに反対する者たちもいました(参考ルカ13:14)。しかし、なりふりかまっていられない状況の中でイエスにすがったのです。
 私たちの信仰の始まりも同じなのではないでしょうか。最初から100%確信を持って信じることはできません。半信半疑という中でイエス様のもとに行くのです。しかし、イエス様はヤイロと一緒に行ってくださったように、そのような私たちを受けとめ、共に歩いてくださるお方なのです。

2)信仰の限界

 イエス様は、ヤイロの家に向かわれました。しかし、その途中で足止めされてしまいます。何があったのでしょうか。それが43-48節に書かれていることですが、実は「イエスが出かけられると。群衆はイエスに押し迫って来た」(42節後半)とあるように、多くの人々がイエス様について来たのです。その中に、もう一人、癒しを願っていた女性がいました。その女性が癒やされる過程で、イエス様は足をとめてその女性と対話されるのです。
 この時のヤイロの気持ちはどうだったでしょうか。聖書には彼の心情は一切記されていませんが、想像するならば非常に焦る気持ちがつのったことでしょう。そうこうしているうちに、何と会堂司の家から人がやって来て「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません」(49節)という知らせを受けるのです。ヤイロがどのように感じたかは、ここでも記されていません。しかし、先の焦る気持ちと相まって、もう少しのところで間に合わなかったという悔しさが込み上げてきたのではないかと思います。何よりも、この場にいたすべての人が、この娘はもう帰って来ないという思いがあったでしょう。
 ここに私たち人間の限界を覚えます。イエス様ならどうにかしてくださるかもしれないという希望を完全に失ってしまう時があるのです。

3)立ち上がらせてくださる

 しかし、イエス様はこのことを聞かれてすかさず言われます。「恐れないで、ただ信じなさい」(49節)と。これは気休めのことばではありませんでした。少女の側にいて泣いていた人々は「死んだのではなく、眠っているのです」と言われるイエス様をあざ笑いました(52-53節)。これが私たち人間の反応です。ただ信じることができない私たちであります。しかし、イエス様は「子よ、起きなさい」と言われ、この少女を生き返らせてくださったのです(54節)。
 この話を通して私たちに語られることは何でしょうか。ヤイロと同じように、私たちも人生の中で崩れ落ちるような経験をすることがあるでしょう。その時、私たちには信じる力がもう残っていないのです。しかし、そのただなかで、イエス様はともにいて「恐れないで、ただ信じなさい」と声をかけてくださるのです。私たちに信じる力を与えてくださるのです。まさに、信仰とは私たちの側の働きのように思えるかもしれませんが、どこまでもイエス様の支えがあるのです。だからこそ、私たちはその絶望の中からも立ち上がることができるのではないでしょうか。このイエス様を信じて歩んでまいりましょう。