金 言
「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。」

説教題 「足ることを学ぶ」
聖 書 ピリピ人への手紙4章10~14節
説教者 井上賛子師

今日はパウロの語る「足る、満足する」の意味を見ていこう。

1.満ち足りる心を伴う敬虔(信心) Ⅰテモテ6:6~8

 敬虔さと共にその人の内には満ち足りた心があるという意味だが、そうではない現実がある。外見は敬虔そうだが、その心の内は不平不満など苦々しい思いがある。敬虔とは関係のない、この世のもので心を満たそうとしてしまう。裏表のない敬虔さは神によって心が満たされることによって与えられる。真の満足を得るためには信仰が必要である。人は神様なしには本当は満足できない。この世のものに満足を求めるのではなく、神様を信じる信仰だけが本当の満足を得ることができる。

2.神様はあらゆる恵みを与えてくださる Ⅱコリント9:7~8

 私たちに神様の恵みによって満たされているという満足がないとしたら、私たちの心に、もう既に恵み以外のものがあるからしれない。色んなものが私の内にあるから神の恵みに心が向かないのかもしれない。一方で、どこまでいっても本当の満足を味わうことはできない。私たちの内を神様の恵みに満たしていただこう。また「あらゆる恵みを与えてくださる」とは、物質的に豊かに与えてくださるということではなく、神様が恵み深い方であるということを信じさせてくださるということ。「どんな境遇にあっても」神様の恵みを信じることができるということである。

3.私を強くしてくださる方によって

 パウロは自分の努力や心の持ち様でどんなこともできる、と言っているのではなく、「私は、私を強くしてくださる方によって」と言っている。強めてくださる方の内で、強めてくださる方と共に生きていく時にのみ可能である。外側の境遇に左右されず、どんな時にも足ることを知る。なんと自由な心だろう。逆に、足ることを知らず不平不満を抱えているならば、僅かな環境の変化にうろたえてしまう。そして、「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。……ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」これがパウロの言う「私は何事でもすることができる」ということの意味である。どんな環境にあっても、足ることを知っている、だから、どんな状況にあっても、私は自由でいられる、何物にも支配されないのである。

4.我が恵み汝に足れり Ⅱコリント12:9

 パウロは自分の病気の癒しを必死に祈ったが、病気は取り除かれず、神様からの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」というものだった。その病気の中でも、神様の恵みは十分に注がれている、満足できるほどに与えられている、あなたの弱さの中でも、神様の力は十分に現わされている、いや、むしろそういう苦しみがあるからこそ、あなたには神様の力が完全に現れていると神様は言われる。「足ることを知る」とは、どんな境遇にあっても「我が恵み汝に足れり」なのである。そして神の恵みは、あの十字架から語られている。主イエス様は、十字架の上から「我が恵み汝に足れり」と言ってくださる。

5.学びました

 パウロは満ち足りることを「学びました」と言っている。あのパウロも学んだのである。様々な苦しみ、病気を通して、「私を強くしてくださる方によって」満ち足りるという心を学んでいった。何度も積み重ねながら「どんな境遇にあっても、私は満ち足り」ていると心から言えるようになるまで学んでいった。そう告白するパウロはこの時、年を重ねローマの牢獄につながれていた。私たちの心は満ち足りているだろうか。それとも満たされない思いを抱えているだろうか。