聖 句「『…その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」(マタイ1:23)

説教題 「インマヌエル-ともにおられる神」
聖 書 マタイの福音書1章18節〜25節
説教者 栗本高仁師

 2025年最後の礼拝を迎えました。神様が与えてくださった恵みを数えつつ、この年末年始の時を過ごしたいと思います。
 待降節において「イエス・キリストがなぜこの世界に来られたのか」ということを、イエスの三つの名「キリスト」「イエス」「インマヌエル」に注目しつつ見ていました。今日は最後の「インマヌエル」です。

1)主の臨在が離れる

 ヨセフに主の使いが夢に現れて「イエスの誕生」が告げられた時(20-21節)、「その名はインマヌエル(=神が私たちとともにおられる)と呼ばれる」と言われます(イザヤ7:14の預言の成就として)。しかし、実際にイエスが「インマヌエル」と呼ばれたとは聖書には書かれていません。それでは、この「インマヌエル」とは一体どのような意味なのでしょうか。
 旧約聖書のつながりから考える必要があります(「キリスト」「イエス」の時もそうであったように)。神様が、イスラエルの民とともにおられた「場所」はどこであったでしょうか。それは、モーセの時代以降は「幕屋」であり、ダビデ・ソロモンの時代以降は「神殿」であります。形や大きさは変わりますが、共通していることは「主の栄光が満ちた」(出40:34,1列8:11)とあるように、そこに神様の臨在があったのです。
 しかし、その神殿から主の臨在が離れて(エゼキエル9-10章)、神殿が破壊されてしまう出来事が起こります。それがバビロン捕囚です。

2)イエスを通して、主の臨在が回復する

 しかし、エゼキエルは、再び「主の栄光が神殿に満ち」て、神殿が回復すると預言します(エゼキエル43:5,48:35)。どのように回復するのでしょうか。歴史的に見ると、捕囚から約40年後、確かにイスラエルの民はエルサレムに帰還して、神殿は再建されます(エズラ,ネヘヤミ時代)。しかし、なお主の栄光が回復することはありませんでした(異邦の民の支配下にあり続けた)。そのような中でお生まれになったのが「インマヌエル」と呼ばれるイエス様であったのです。つまり、イエスは、再び主の栄光を回復させるお方として、この地上に来られたのです。
 それでは、どのようにして主の栄光は回復するのでしょうか。主の栄光が満ちた神殿は一体どこにあるのでしょうか。実は、イエス様ご自身が「神殿」であったのです。どうしてそのように言えるでしょうか。マタイはそのことを他の箇所で記しています。「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」(マタイ18:19)。つまり、イエスの名で集まり祈る時、そのイエスを通して、天の神が祈りを聞いてくださるのです。イエスを通して「神がわたしたちとともにおられる」が現実となったのです。それゆえに、私たちはイエス様とともにいる時、この地上のどこにあっても(神殿でなくとも)神様と豊かな交わりができるのです。

3)危機の中で、主の臨在を経験する

 しかし、私たちは「神様がともにおられる」ということがわからなくなってしまう時があるでしょう。その一つとして、私たちが危機的な状況に陥った時があるのではないでしょうか。
 このインマヌエル預言がなされた時、ヨセフはまさにそのような状況でした。婚約中のマリアが妊娠をしていて、正義とあわれみ深さを持っていたヨセフは、この二つの間で葛藤していました。危機的な状況の中で、彼は自分の精一杯の知恵を振り絞って、「ひそかに離縁しよう」という一つの決断をしようとするのです。しかし、それは神の計画ではありませんでした。もしかすると、ヨセフは人間的な常識の範囲内で考えるあまり、人間を超えた神様の存在に目を留めることができなかったのかもしれません。危機的な状況の中で、私たちは神様がともにおられることを忘れてしまうことがあります。
 しかし、同時にこのような危機の中でこそ、神様はご自身がともにおられることを表してくださいます。ヨセフに主の使いを通して神の語りかけがなされたように、私たちにも主の臨在を表してくださいます。それゆえに、私たちの危機は、恵みの時となるのです。どうぞそのことを覚えつつ、新しく始まっていく一年を迎えてまいりましょう。