ピリピ3:1~16

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12)

説教題 「キリストに捕えられて」
聖 書 ピリピ3:1~16
説教者 矢島志朗勧士
ピリピ人への手紙の2章の終わりでは、エパフロデトの働きについて触れられている。彼はパウロを助けるためにピリピ教会から派遣されたが、ひん死の病気になり使命を果たし切れずに、心苦しく思っていた。しかしパウロは「彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。」(2:30)と語り、エパフロデトの存在と働きに感謝をした。このようなねぎらいの後に、続けてキリスト者の生き方についての勧めがなされていく。

1.気をつけること(1-11)

1節で「主にあって喜びなさい」「さきに書いたのと同じことを繰り返す」「あなたがたには安全なことになる」とある。そして語れられたのは「あの犬どもを警戒しなさい」。これは最高に侮辱する言葉使いであり、ユダヤ人たちが異邦人を侮辱する時に使っていた言葉を、パウロが逆にユダヤ主義者たちに対して使ったものである。
「肉に割礼の傷をつけている人たち」(2)とは「ただ体を切り刻んだだけの者」であ
って、肉体に割礼さえあれば神様に受け入れられるという立場の人たちである。肉
において、外から見てどのようなものであるかが、神に受けいれられているか否か
の判断基準となる。パウロはこの考えを「あの犬ども」というほど嫌い、拒否する。神
の霊によって礼拝し、肉を頼みとはしない者こそ割礼の者、すなわち神に受け入れ
られる者なのだと語る。
この世では多くの場合、能力や外見などの要素が人の評価基準になる。その現実の中で私たちは生きている。4節でパウロは「もとより」と言って、自分自身が「肉の頼み」において、すなわち血統、経歴、知識、熱心さにおいて誇るべき点が多々あると言う。そしてこれらの点が確かに自分にとって「益」であったとも述べる。ところが7、8節にあるように、これらはもはやパウロにとっては「損」としか思えないものとなった。パウロが素晴らしいと言っているのは、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」であり、かつて誇っていたものはすべて「ふん土」のようなものでしかなくなった。「ふん土」は「ちり、あくた」とも訳される。
パウロはさらに具体的に、神からの義を受け(9)、キリストとその復活の力を知り(10)、死人のうちからの復活に達すること(11)を願っていると語る。この願いの中には義認、聖化、栄化という救いのステップを見ることができる。パウロの告白と勧めから、私たちが何に本当に価値を置くべきかについて、教えられたい。

2.キリストに捕えられて(12-16)

パウロはこの復活を目指す中で「ただ捕えようとして追い求めている」(12)と語り、
そうするのは「キリスト・イエスによって捕らえられているからである」と語る。すでに到達し得たのではなく、完全に向かって、キリストに捕えられて導かれている。後ろのものを忘れて、つまり過去のものには縛られないで、目標をめざして、神に与えられる賞与を得ようという一事に努めている。そのように考えることこそが「全き人」(15)であると語る。「全き人」とは「大人」「成熟した人」を意味する。
完全なものを目指していても、私たち自身の力ではとうていそこにはたどり着け
ない。そのことにもどかしさを感じることがある。良い歩みをしたくても、時には「自分は本当に何もできないものだ」と思う程、落ち込むこともある。しかし、実はそのような思いを持つこと自体が、キリストに捕えられている証拠なのではないだろうか。もがきながら、達し得たところに従って進む中で、私たちはキリストとその復活の力を知っていくのである。
神さまは私たちの歩みの中で絶妙な欠乏感、弱さ、あいまいさ、不確かさ、葛藤、やりきれなさをあえて与えてくださっているのではないだろうか。いまだ不完全ながら完全に向かっていく歩みは、葛藤もあるが、キリストに認められていて、捕えられている恵みの歩みなのだ。そう考えることこそ成熟した姿なのである。私たちは神様の深い愛によって選ばれて救われ、今の場所に招かれ、生かされている。その恵みを味あわせていただきながら、共に歩んでいきたい。

【中高生が考えるためのヒント】

(問1)パウロは、何に気をつけるように語っていますか。(1-3)
(問2)パウロは、何が一番価値があることであると語っていますか。(4-11)
(問3)完全な者となることについてどのように考えることが、「全き人」の考え方と言えますか。(12-16)