金 言 「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。」
(マタイ10:19/新改訳2017)

説教題 「イエスの権威によって」②~弟子の派遣~
聖 書 マタイ10章16~23節
説教者 長谷部裕子師

先週に続きイエス様の働きを弟子たちが継承をしていくようすをマタイ福音書10章1~11章1節から見てゆきます。それまでの弟子たちはイエス様に追随していましたが、イエス様の教えを聞いてみわざを驚き眺める言わば傍観者たちでした。しかしこの章からはイエス様のもとから弟子たちは、御国の恵みを人々に知らせに遣わされて行きます。マタイは十二弟子を二人ずつ紹介しています。これはイエス様が宣教に派遣されたときに組まれたものを(マルコ6:7)と同様です。今日はいよいよイエス様が夜を徹して祈り選んだ精鋭十二弟子たちを遣わすにあたって、イエス様は十二弟子たちが遭遇するかもしれない「迫害に対する備え」を伝えます。

1.蛇のように賢く、鳩のように素直で

イエス様にとっては、弟子たちを宣教に遣わすことは「狼の中に羊を送り出すようなもの」でした。羊は牙や鋭い爪も持たず、早い逃げ足も持っていません。つまり羊は敵に対して対抗する術が何もありません。そのような羊を宣教者と類似させています。「狼の中に」とは弟子たちが命を狙われるような危険にさらされることを暗示しています。だから「蛇のように賢く」あらねばならないと、イエス様は諭します。賢く・さとくとは、その時々の状態を見極め、賢明な判断を下す能力と言われます。賢くある同時にさらにイエス様は鳩のように素直であることを求められた。それは混じりけのない、純粋な状態、きよく、欺かないなどの意味を含んでいました。
クリスチャンは神の働きを全うするために、どんなときにも主にある知恵と御霊に満たされて物事に賢く対処ながら、抜け目なくではなくどこまでも素直で純真な主のしもべらしく、ふるまいたい。

2.話すことは御霊が教えてくださる

「人々には注意しなさい」(17)とある人々とは、ユダヤ人反対者または総督と王です。弟子はイエス様を信じて、崇拝するがゆえに連行されると予告を受けます。
イエス様は十二弟子が「ユダヤ人反対者に議会(最高議会はエルサレムにあったサンヘンドリン)へ引き出し鞭でしたたか打たれるだろう。(17)また総督や王とはローマ帝国から派遣された異邦人の指導者と支配者前に引き出されて尋問を受けるであろう。(18)」とやがて直面する迫害を予告します。イエス様がこう話されたのは、弟子たちをいたずらに不安にさせるためではなく、迫害に対して準備をさせ、どのようにするべきかを教えるためでした。
その上でイエス様は福音宣教の使命に生きる者は、人々の前に立たされても「何をどのように話そうか」と心配する必要はないと断言されます。「言うべきことは、そのとき授けられるからである。」(19)イエス様はその時が来ることは覚悟しなさい。だが少しも恐れることはないと励まします。もし証しの場に立たされたら自らが何を話すべきかとその人は考えめぐらすが「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」(20)と教えられる。

3.耐え忍ぶ者は救われる

ここまでは時の権力者による圧迫でしたが、次に家庭の中に来る分裂です。この場合、家族がイエス様に従う身内の者を律法に違反者として訴えるということがありました。家族が愛し合うのは当然ですが、イエス様に従うためにそうした関係さえも犠牲にしなければならないこともあります。
わたしは家族の中で初めに信仰をもったいわゆる「初穂」です。洗礼を受けるとき、両親は難色を示しました。その訳はわたしが洗礼を受けた1995年春は、社会ではオウムサリン事件が大問題になり、日本人の大多数は宗教全般に対して懐疑して敬遠するムードがありました。両親も渋々承知はしてくれましたが賛成までには至らず、洗礼式には出席していません。ところが神様はわたしの洗礼から2年後に従姉妹を救いに導きました。それまでの放蕩を止めて教会に行くようになった娘を身近に見て安心したのか、教会で仲良くなった姉妹たちも母の救いのために祈り良い関係作りがなされました。頑なだった母も教会に誘うと年に何回かは礼拝に出席するまでになりました。そしてわたしの洗礼から十五年後に、ついに神様は母を救ってくださいました。まさに「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(22)のです。

【中高生の考えるヒント】

(問1)あなたの周囲にキリスト教信仰に否定的な人はいますか。
(問2)信仰について説明しなければならないときイエス様は何と言われましたか。
(問3)世界でキリスト教を信仰することで、迫害されている国はどこですか。