金 言 「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」
(マタイ10:28)

説教題 「イエスの権威によって」③~弟子の派遣~
聖 書 マタイ10章24~33節
説教者 長谷部裕子師

イエス様はご自分がガリラヤ宣教に奔走するだけでは足りず、働き手は不足していることを覚えました。そこで、イエス様を慕い追随する大勢の弟子たちの中から、十二人を夜を徹して祈りによって選出し十二使徒としました。この十二人を二人一組にして宣教に遣わすに際して、伝道旅行の注意事項を説き、迫害に直面したときにどう対処すべきかの心構えを教える。さらに宣教に関わる教えは続きます。ここからは宣教に従事する弟子の心はどうあるべきかを伝え、弟子を教育しています。

1. 本当に恐れるべき方

まずイエス様は最初に「弟子はその師に勝らない」言われます。この言葉は、働きや能力の点で弟子が師を超えることはないと言っているのではありません。この世界では弟子が師を乗り越えて例などいくらでもあり、またそうでなくては社会が発展・前進してゆくことはありません。イエス様は、「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。…」(ヨハネ15:20)と言われます。つまりイエス様の弟子はイエス様に勝っていないので、この世から迫害を受けるとしても、イエス様以上にひどい扱いや仕打ちを受けることはあり得ませんと約束されて、弟子たちを慰めたのです。
今日の箇所でイエス様は弟子たちに「恐れてはならない、恐れるな…」と3度も言っています。弟子たちの顔色はイエス様から宣教に伴った迫害についてあらかじめ教え込まれるにつれて、師を離れて自分たちだけで出かける宣教旅行に少なからず恐怖を感じていました。その様子を見てイエス様は「なぜ恐ろしがらなくても良いのか」を弟子たちに教え励ましています。人々はイエス様の弟子を迫害して「からだ」を殺すことはできるかもしれない。だが「たましい」を殺すことはできない。そのような存在にすぎない人間を恐れる必要はない。本当に恐れるべき方は「からだ」と「たましい」の両方を滅ぼすことができる神です。このかたを恐れなければならない。口語訳で「地獄」と訳された○ギゲヘナとは、救いを受けていない人が最後の審判の後に「からだ」と「たましい」が両方、永遠に苦しまなければならない最終的な行先です。(黙示録20:10)プロテスタント宗教改革の指導者ジョン・ノックスは埋葬のとき、「神を恐れるあまりに、いかなる人も恐れなかった者がここに眠る」と言われました。わたしたちが本当に恐れるべきお方がは誰であるのかを通して、信仰の姿勢が問われます。

2. 神の目に価値があるもの

イエス様は人を恐れる必要のないことを説かれます。神がどんなに小さなものに対しても細やかな配慮をしてくださる。一羽の雀でさえ大切に思い、気がつきもしない自分の髪の数でさえ神は数えられている。神がそこまで心配してくださるなら、人間を恐れる必要などないと言われます。神は全宇宙を管理されておられる方なのだから、小さい雀ごときが主に覚えられていることは信じがたい。ところが神は雀さえも気遣ってくださる。ましてや人間に心をかけていないわけはない。神はご自身が造られた被造物を愛され、人には取るに足りないようでも、神の目に価値があるものとして重んじて計らってくださる。だからどんな心配ももはや無用なのです。

3. 神を恐れ、神をあがめる

32~33節はイエス様が宣教する弟子たちから「宣教をされる人々」に向けて語ります。「人の前で私を受け入れる」とはイエス様を主と告白するものであり、イエス様を神と認めることです。人の前での行動が神の前でのさばきに連動します。反対に「人の前で私を拒む者」は永遠のさばきが下されると厳粛に言われます。イエス様を神と認めて恥とせず、人の前で父なる神をあがめるのをためらわずにいたい。
弟子たちは宣教派遣を前にして、大きな恐れにとらわれていました。わたしたちも本当に恐れるべき方が誰かをのみを恐れて、その方はわたしたちを常に心にかけて心配してくださるがゆえに、恐れを乗り切って神の愛と救いを伝えたい。宣教者は人に語ると同時に神のみ前に立つ者なのです。

【中高生の考えるヒント】

(問1)わたしたちが本当に恐れるべきお方はだれですか。
(問2)わたしたちに価値があることは、何で分かりますか。
(問3)人の前でイエス様を受け入れるとは、どういうことですか。