金 言 「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストの来られるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えてくださるだろう」(ピリピ3:20~21)

説教題 「天国の市民として生きる」
聖 書 ピリピ3:17~21
説教者 矢島志朗勧士
ピリピ人への手紙の3章において、パウロは律法主義的な基準で生き、人を評価することを徹底的に退け、神だけにより頼む者こそ真の割礼の者であると述べ、自身が肉の誇りだと言えるもの、かつて得であったものは今やふん土、損と思っていると語る。さらに、自分はキリストに捕えられて復活の希望のもと、キリスト・イエスによる賞与を得ようと一時に努めていることを告白し、「全き人」はみな、そのような考えを持ってほしいと述べている。そしてさらに、キリスト者の生き方についての勧めがなされる。

1.私にならってほしい(17-19)

17節では「わたしにならう者となってほしい」、「わたしたちにならって歩く人たち
に、目をとめなさい」とある。それはどういうことかについて、パウロはその逆の歩みをしている人たちがいることに言及することで説明する。その人たちとは「キリストの十字架に敵対して歩いている者」たちである。彼らは、律法など守る必要がないと言って、欲望の赴くままに邪悪な生活をしている反律法主義者たちである。19節で「彼らの神はその腹」とあるのは、欲望が彼らの神となっていることを意味する。キリストの十字架に敵対する歩みの最後は滅びである、そんな生き方をしないでほしい、罪がゆるされていることに甘んじて勘違いをし、欲望のままの歩みをしないでほしいということである。
パウロが涙を流して語ったというのは、本当な切実な思いであったということであり、キリストの十字架に敵対する生き方がどれほど悲惨であるかがわかっていたからである。厳粛な思いで、この言葉に聞いていきたい。

2.天国の市民として生きる(20-21)

一方では律法主義を激しく糾弾し(3:2)、また一方では反律法主義に歩まないようにとパウロは語る。では一体、どのように歩めばいいのか。20節で「しかし、私たちの国籍は天にある」とある。この「国籍」politeumaは「国家共同体、生活、天国の植民地」とも訳せる言葉で、ある学者は「私たちの故郷は天国にある、そしてこの地上では、私たちは、天国の植民地の市民である。」と語る。つまり私たちに求められている生き方は「天国という共同体の市民として生きよ」「あたかもすでに天国にいる者のような、天国の基準で生きよ」ということになる。それはキリストの再臨を待ち望みつつ、彼が万物をご自身に従わせうる力によって、私たちの体を栄光の体に復活させてくださることを待ち望む生き方である。復活の力が今もうすでに私たちのうちに働いていることを信じる生き方でもある。13節、14節にあるような「キリストに捕らえられて、神の賞与を目指して走る生き方」でもある。
この生き方は、日常の歩みにおいてでどのように表されるだろうか。それは、常に神様に信頼を置きながら、聖書が語る基準で生きることの努力をやめない、上を目指して歩み続けるということではないだろうか。神様に信頼をしているから何の努力もしなくてよいというのではなく、また信頼なしに自分の力のみに頼る生き方でもない。
主に信頼をしつつ使命を果たしていこうとする時に、私たちは神の力がうちに働くことを知る。「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(1:21)という告白に生きたパウロは、そのことを身に染みて知っていた。「生きているのは、もはや私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)という告白と、熱心に努力する生き方は矛盾をしない。いやむしろ、神が約束してくださっている希望があるからこそ、何が神様のみこころなのか、私は何をなすべきかを真剣に祈り考え、行動に移していけるのである。
信仰者として天国への希望を持ちつつ、より良いものを目指して務めることを励まし合う交わりを持ちながら、共に進んでいきたい。誠実になす営みを神様は決して忘れられることなく、み国の建設のために用いてくださる。ぶれることなく希望を告白しながら、天国の市民として生きていきたい。

【中高生への考えるヒント】

(問1)パウロはなぜ、「わたしにならう者となってほしい」と語るのでしょうか。(17-19)
(問2)キリストの十字架に敵対する者とは、どういう人たちですか。(18-19)
(問3)「わたしたちの国籍は天にある」ことを覚える生き方とは、どのようなものですか。(20-21)