金 言 「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Ⅱコリント5:21)

説教題 「身代わりの十字架」
聖 書 ルカ23章13~25節
説教者 長谷部裕子師

イースターの前の日曜日を除いた40日間を受難節(レント)と呼びます。受難節を迎えると教会とキリスト者は、イエス様の十字架の御苦しみとご受難に思いを寄せて礼拝を守ります。40という数字は聖書の中では、特別な数字と言えます。エジプトを脱出してモーセの率いるユダヤの民が荒野を旅した歳月は四十年です。イエス様が悪魔の試みを受けるために、荒野に退いて断食されたのも四十日でした。私たちもこの四十日間、静まって十字架を偲び、私たちの救いを成し遂げるために試練を耐え忍んだイエス様を思いましょう。

1. ピラト、弱気で日和見主義な為政者

イエス様の不当な裁判は、第五代ローマ皇帝の代理者である総督(26~36年)として、ピラトがユダヤ統治していたときに行われました。ここではユダヤの最高の権威を持ち本来は強者であるはずの総督ピラトが、配下に治めるはずのユダヤの民に対して滑稽なほどに弱腰です。ピラトは死刑に値するほどの罪を、イエス様に認める事ができません。そこでこの日の裁判で3回も民衆に向かって「彼(イエス)をゆるしてやろう」と呼びかけます。(15,20,22)しかし宗教家たちが背後で焚き付けたユダヤ人の民衆の「十字架につけよ」という怒号に屈してしまい人心におもねています。その結果自己保身のために為政者としての正義を捨てて、イエス様を十字架につけることを許可して、ユダヤ人に渡してしまいます。そして慣例とされていた特赦を民衆の要求どおりに極悪人のパラバを釈放します。ピラトは私利私欲に迷走して、総督として裁判を公明正大に行う義務を放棄します。取り返しのつかない罪を犯します。使徒信条は実在したポンテオ・ピラトの名が書き記すことで、イエス様の十字架と復活が歴史的事実であり信憑性を強調しているとされます。

2.ユダヤ民衆、虚勢を張った強さと群集心理

ピラトはときのユダヤ総督で権威者でありながら、民におもねていて弱々しく見えます。それと対照的なのがユダヤ人民衆の横柄な強さです。それは虚勢を張った強さと群集心理の恐ろしさです。ユダヤ人はピラトに「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。(ヨハネ19:12)と、ピラトがローマ皇帝の機嫌を損ねることを恐れる弱みに付け込んで脅します。イエス様が旧約の預言さながら、ろばに乗ってエルサレムに入場されたかの日には、喜んで歓迎をした彼らでした。それが一転数日後の裁判になると不機嫌で無作法な集団と化します。ユダヤ人はイエス様にいらだち憎悪を募らせ、十字架刑を強く要求して声高に叫び続けます。群集心理が助長すると本来弱い立場の人々でさえ権威に逆らい、総督に不当な要求を何度も突きつけます。(18,21,23)彼らは正常な判断力を失い、宗教家にそそのかされてイエス様に悪感情を募らせた結果、もはや自分たちが何をしているのか見当がつきません。

3. イエス、沈黙に見る本当の強さ

この混乱した裁判でただ一人冷静さを保っていたのはイエス様でした。民衆は「十字架につけよ」と喚き散らして裁判が騒然となっても、それとは対照的にイエス様は取り乱すことなく、自分に不利な証言が続いても沈黙し続けます。通常、被告人は裁判で黙秘権を使う場合、自分に不利なことは沈黙しても、無実になるための弁明なら雄弁になるのが常です。しかしイエス様は沈黙されローマ兵から数々の蛮行もされるがままです。その姿はイザヤ書53:7の「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」を思い出します。黙秘を貫きわたしたちの罪を償うために、神のさばきを全身全霊で受けようと心に決めたお姿です。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(Ⅰコリント1:25)とあるように、それこそ沈黙に見る本当の強さ、主の愛からほとばしるひたむきな強さなのです。わたしたちは世にあって外見は弱く権威がある者でもありません。しかし、救いにあずかったキリスト者は、聖霊が内に宿り主の霊と一つにされます。つまりイエス様に見る本物の強さを、聖霊によってわたしたちは内に宿しています。

【中高生への考えるヒント】

(問1)あなたは自分が強いと思いますか、弱いですか
(問2)イエス様はなぜ裁判で沈黙されたのですか。
(問3)あなたはどうやったら、イエス様のような本当の強さが身につきますか。