金 言 「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネべに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである。」」(ヨナ1:1-2)

説教題 「人の思いを超える神の愛」
聖 書 ヨナ1:1~16
説教者 矢島志朗勧士
イスラエルの北王国の預言者であったヨナは、紀元前8世紀の中頃に、ヤロブアム
二世の治世のもとで主に活動をした(列下14:25)。イスラエルとアッシリアの間には、領土をめぐる緊張関係が常にあった。その状況において、神様とヨナのやりとりについて記されているのが、このヨナ書である。

1.宣教の命令と、ヨナの行動(1-3)

イスラエル北王国と敵対していたアッシリアの首都ニネベに対して、神は「これに向かって呼ばわれ」と、預言者ヨナに命じる。これは、悔い改めて主に立ち返ること促すようにとの命令である。
通常であれば、この命令にすぐに応えていくのが、預言者としてあるべき姿であろう。しかし、ヨナはこれを拒んでしまう。彼は主の前を離れて、ヨッパという地から船に乗り、タルシシュ(現在のスペイン地方)までの逃亡を図る。
アッシリアは、イスラエルにとって最も恐ろしい敵であった。アッシリア人は数えきれないほどの心ない残虐行為によって、神と世界の前に自らの力を誇示したと言われる。その意味では、ニネベの住民ほど、神の愛にふさわしくない者はなかった。ヨナはそのことを知っていて、彼らに神のことばを語ることを拒み、神の命令とは逆方向へと逃げたのである。
ヨナにとっては、イスラエルこそが神に選ばれた民であり、愛する自分の国が守られるためにも、ニネベの人たちが救われるということは納得がいかなかったのであろう。救われるべきはイスラエルのみであり、彼らは救われるに値しない、だからニネべになど行きたくないと考えたのであった。

2.嵐の中で(4-16)

しかし、主はこのヨナの行動を放置されなかった。嵐が起こったのである。大風が
起こされて、船が破れるほどの激しい暴風が船の上に起こった(4)。水夫たちは激しく動揺をした。めいめい自分の神を呼び求め、船を軽くするために積み荷を海に投げ捨てた。ヨナはこの事態の中でも船の奥で熟睡をしており、「起きて、あなたの神に呼ばわりなさい」と、船長に声をかけられる有様であった。
そして、この災いがいったい誰のせいであるかを知るためにくじが引かれたところ、ヨナにあたった。彼が、自身がヘブルびとであることを語ると、人々は大いに恐れた。彼らは異教徒でありながら、イスラエルの神のことを知っていたのである。ヨナは降参をして、自分を海に投げ入れるように提案をした。人々が主に呼ばわりつつヨナを海に投げ入れたところ、海の荒れるのがやんだ。人々は主を恐れて犠牲を主にささげるほどであった。

3.人の思いを超える神の愛

この嵐の意味が何であったのかは、この後にさらに明らかにされていく。ここまでで既
にわかることは、神様からの宣教の命令があったにもかかわらず、ヨナはそれを果たそ
うとしなかったことである。そこにはニネベのひとが救われるのを快く思わないという、偏
った愛国心があった。
私たちは、神様が全てを造られ、全ての者の主であり、全ての者が救われることを願
っておられることを知っている。神様が愛の方であり、あわれみ深い方であることを知っ
ている。しかし、その愛の深さに私たちの思いが及ばないことがある。自分の物差しが、
神様の物差しとは一致しないことがあり、自分のまなざしが、神様のまなざしとは一致し
ないことがあり得るのである。ニネベの人たちが救われるべきでないと判断する権利
は、ヨナにはなかった。神様の思いは、ヨナの思いをはるかに超えていたのである。
私たちには日々、多くの判断すべきこと、選択すべきことがある。誠実に、よかれと思って人に、物事に臨もうとすることが多いことであろう。しかし時として、神様の思いとは違って自分の思いにこだわり続けたり、神様に心を開かず、顔を背けて歩んでしまおうとすることがある。その時に、神様は神様の方法で気づかせようとしてくださる。その導きに対して、かたくなにならないものでありたい。神様の思いはどこにあるかをたずね求め、日に日に知らされていくものでありたい。

(問1)神様からヨナへの命令は、どのようなものでしたか?(1-2)
(問2)その命令に対して、ヨナはどのような態度と行動をとりましたか?(3)
(問3)その後、何が起こりましたか?なぜだと思いますか?(4-16)