金 言 「ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。」(ヨナ2:1-2)

説教題 「不完全な者を愛する神の愛
聖 書 ヨナ1:17~2:10
説教者 矢島志朗勧士

 イスラエル北王国と敵対していたアッシリアの首都ニネベに対して、「これに向かって呼ばわれ」と、主は預言者ヨナに命じる。ヨナはこれを拒み、主の前を離れてヨッパという地から船に乗り、タルシシュ(現在のスペイン地方)までの逃亡を図る。ヨナにとっては、イスラエルこそが神に選ばれた民であり、愛する自分の国が守られるためにも、ニネベの人たちが救われるということには納得がいかなかった。しかし、主はこのヨナの行動を放置されなかった。嵐が起こり、この災いがいったい誰のせいであるかを知るために船の中でくじが引かれたところ、ヨナにあたった。彼が、自身がヘブルびとであることを語ると、同乗の人々は大いに恐れた。ヨナは降参をして、自分を海に投げ入れるように提案をした。人々が主に呼ばわりつつヨナを海に投げ入れたところ、海の荒れるのがやんだ。人々は主を恐れて犠牲をささげるほどであった。

1.ヨナを助けてくださった神(1:17-2:2)

 主の前を離れていたヨナは、海に投げ込まれて窮地に追い込まれ、ようやく、主に命の懇願をする。彼は自分が主に背いていたことを自覚していた。だから船長たちの前でも、自分がどこから来て何をしようとしているかを堂々話した(1:9)。しかしそんなヨナも、海に放り込まれた中でようやく、神に真剣に助けを求めるようになった。
 魚の腹の中の出来事は、イエス様がご自身の復活について語る時に言及されている(マタイ12:38-41)。これは確かに神様が介入された出来事であったことがわかる。主はヨナの叫びを聞き、答えられた。ヨナが主の前を離れて逃げたことは、主のみ心にかなうことではなかった。主はヨナに従ってほしかった。それをしなかったのに、主はヨナを助けてくださった。ヨナがはじめから主に従っていれば、ここまでの事態にはならなかったであろう。それでも助けてくださる主のあわれみ深さを思う。主に従いやすいものでありたい。

2.神への感謝と、理解の不十分(3-10)

 ヨナは、自分はどのような苦境を通ったかを詳しく語り、主への感謝を述べる。「わたしはあなたの前から追われてしまった。どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか」(4b)とあるが、もう主の宮を仰ぎ見れないほど主の前から離れてしまったと告白し、命の危険を覚えたことであろう。しかしそのただ中で彼は、自分の祈りが聞か主が助けてくださることを確信し、陸に戻れる前から主に感謝を述べている。
 ある意味、とても強く、立派な信仰でもある。偶像になどは心を寄せず、「救いは主にある」とも告白をしている。しかしこれらの告白や祈りの中に感謝はあっても、主に従っていないことへの悔い改めの言葉が見られない。「救いは主にある」という言葉から神様の愛の深さを覚えるが、まさにその愛によってニネベの人も赦されるということを、受け入れる余地がヨナには見られない。神様のお心を十分には理解していないのである。

3.不完全な者を愛する神の愛

ヨナの思いは、主のみ心にかなうように変わっていっただろうか。神様への信頼、感謝は深く覚えている。しかし一方で、ニネべの人たちが赦されるということまで、この時点で願っていたかというと、そうではない。それはヨナ書を読み進めていくことでさらにわかることである。
 ヨナとしての熱心さ、まじめさ、誠実さはある。しかし彼は不完全で、至っていない点があった。このことから何を学べるだろうか。私たちなりの精一杯の信仰をあらわしたとしても、また神様の愛とあわれみを深く覚えて感謝することがあったとしても、なお私たちには足りないこと、わからないことがあり続けているのである。悔い改められていないこともあるかもしれない。そのことへの謙虚さを持つ必要がある。同時に、その足りなさ、不完全さがある私たちが、イエス様が十字架にかかりよみがえってくださったほどに深く愛されていることを覚えたい。足りなさを覚えることがあっても、神様の愛はそのような私を包み、教え、導いてくださる。その愛は自分だけにではなく自分の隣人、すべての人たちに及んでいる。日ごとにその愛の広さ、高さ、長さ、深さを教えられていく者でありたい。

(問1)神様はヨナの叫びに、どのように答えてくださいましたか?(1:17-2:2)
(問2)ヨナは、自分が追い込まれた苦しみを、どのように語っていますか?(3-10)
(問3)神様の愛の深さを、どのような時に強く思いますか?