金 言 「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」 (マタイ6:6/新改訳2017)

説教題 「隠れたところにおられる神に祈る」
聖 書 マタイ6章5~8節
説教者 長谷部裕子師

山上の説教から「八福の教え」から祈りについて学びます。「神を信じる者にとって、最もすばらしい特権は祈りができることにある。」とある牧師は言いました。祈りは霊的な呼吸です。呼吸をしない人間はいないように、神様を信じる者なら祈りは欠かせません。神様を信じているけれど祈りのない信仰だとすれば机上の空論です。祈りは生ける神様との交わりです。神様といつでもどこでもつながる通信手段です。携帯電話は便利なものですが、アンテナが立っていないと会話はできません。ところが祈りという最強のツールがある限り、神様と信仰者を結ぶ祈りの絆を妨げるものは何もありません。「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ6:18)

1.見せかけの祈り(5節)

当時の敬虔なユダヤ人は、午前9時、正午、午後3時に祈ることを習慣にし、どこにいてもお祈りの姿勢を取りました。なかには祈りの時間になると、町の広場や街角にわざわざ出向いて祈りをささげる人がいたそうです。そういう人は自分がどれほど敬虔かを見せびらかしたかったのかもしれない。「彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです」(5)イエス様は公に人前で祈ることを禁じられたのではありません。人に見られるためにささげられた祈り、偽善的な祈りを非難されました。神に向かってささげられた祈りではなく、人に見られたくて、これ見よがしに祈りがなされているからです。これは「施し」についても同様なことが言えます。(2~3)

2. 本心からの祈り(6節)

イエス様は「家の奥の自分の部屋に入り」「戸を閉めて」(隠れた密室で)「隠れたところにおられるあなたの父に」祈りなさい。(7)と言われました。神学生のとき舎監の先生から「神と二人きりになりなさい」とよく言われことを思い出します。 ひとりになれる祈りの小部屋など我が家にはありませんという方に、祈りについての逸話をご紹介します。18世紀のイギリスで活躍した大伝道者、ジョン・ウェスレーの母スザンナは、10人以上の子供を持っていたので、家事や育児で毎日がとても忙しく、おまけに彼女には祈るためにこもる自室がありませんでした。そこで祈るときは自分の前にかけたエプロンで顔を覆い、その中で一心に祈っていたそうです。  聖書から知る限りでは、イエス様ご自身は「家の奥の自分の部屋」で祈られたことはありません。祈るために山に登られ、ゲッセマネの園にも行かれた。場所は問題ではありません。他人を遠ざけて神様と二人きりになることで、親密な関係を持てます。

3. 祈りの法則(7~8節)

イエス様は祈ることばにも注意を払いなさいという。 「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っている」(7)とあるように、くどくどと祈る必要はありません。「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。…だから、ことばを少なくせよ。」(伝道の書5:2) 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩46:10) 矢継ぎ早に祈りの言葉を神様に申し述べるだけでなく、時には隠れたところにおられる神様の御声を、沈黙の中で待ち聴く祈りのときを持ちます。簡潔な祈りで良いのです。なぜなら、「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8)と言われます。では祈らなくて良いのか。そうではなく美辞麗句を並べ立てたりしない飾らないシンプルでストレートな祈りを欲しているのです。イエス様は「わたしに何をしてほしいのか」と盲人に尋ねます。(マルコ5:21)神様は私たちが子どものように素直に何でも願い求めることを願っています。祈り込んだ人だけが、祈りの奥深さを知り、祈ることが好きになり、さらに祈る人に変えられます。

(問1) あなたは祈りとき神様にストレートに祈っていますか。
(問2) 祈る時に神様によびかけるだけでなく、「神に聴く祈り」をしますか。
(問3) 今、祈りたいことを自分の言葉で簡潔に祈ってみてください。