金 言 「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災いを思いかえして、これをおやめになった。」(ヨナ3:10)

説教題 「裁きを思いかえす神」
聖 書 ヨナ3:1~10
説教者 矢島志朗勧士

 イスラエル北王国と敵対していたアッシリアの首都ニネベに対して、悔い改めをうなが
すメッセージを語るようにと、主は預言者ヨナに命じる。ヨナはこれを拒み、主の前を離
れてヨッパという地から船に乗り、タルシシュ(現在のスペイン地方)までの逃亡を図る。
激しい嵐が起こり、ヨナは海に投げ込まれて窮地に追い込まれて、ようやく主にすがっ
て助けを求め。魚に飲み込まれたヨナの祈りを聞いた神には、彼を陸へと出したのであ
った。

1.ヨナを用い続ける神(1-4)

主の言葉がふたたびヨナに臨んだ。「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ。」(2)。ヨナはその言葉に従ってニネベに行き、「四十日を経たらニネベは滅びる」(4)と語った。
初めに「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ」(1:2a)と語られて、その言葉に従うことを拒んだヨナが、今度は主に従った。神様は一度ご自身に背いたヨナを、見捨てることはされなかった。立ち返るように導き、再度任務を与えている。ヨナを愛し、忍耐深く接して導いて用いられる神の愛をここに見る。
私たちの歩みにおいても、み心に沿って歩むことに時には失敗し、時には意図的に背いてさえしまうようなことがあり得る。しかし、私たちもまた神に愛され、忍耐深く導かれ用いられていることを思う。この神が私たちの主であることにあらためて感謝を覚え、従っていく者でありたい。

2.神のことばの力(5-9)

ヨナの言葉を聞いたニネベの人たちは神を信じ、断食をして悔い改めた。荒布を着るというのは、後悔や悲しみの気持ちをあらわす行為である。さらにニネベの王は、人のみならず獣までも徹底的な悔い改めをするように指示をした。神を畏れての悔い改めである。
このような回心は、常に神がイスラエルの民に求めていたものでもあるが、民は悔い改めと離反を繰り返し続けた。一方で、このニネベと人たちは大変凶暴で残虐な人々であったが、神のことば聞いて悔い改めたのである。これは、後にイエス様が悔い改めの模範として言及をされたほどのことであった(マタイ12:39-41)。
この悔い改めはなぜ起こったかと言えば、ヨナを通してさばきの言葉が語られたからである。それは神のことばであった。神のことばには力がある(ヘブル4:12)。このことばがニネベの人たちに畏れと悔い改めをもたらした。
私たちはこの神のことばの力を、日々どれだけ真剣に受けとめているだろうか。みことばには私たちを教え、戒め、正しくし、義に導く力がある(Ⅱテモテ3:16b)。みことばによって、私たちは本来いるべき場所に戻されながら生きていくことができる。この力に信頼をしていきたい。

3.神の思いかえし(10)

神はニネベの人たちが悪い道を離れたのを見て、彼らに下そうと言われた災いを思いかえして、おやめになった。神のゆるしのわざがここで起こった。
このことは、神が不完全であったり、一貫性のないお方であるということを意味するのではない。神は悔い改める者をゆるされるという点において一貫している。「ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災いを下そうとしたことを思いかえす。」(エレミヤ18:7-8)。神は真実なお方である。
 ヨナにとっては、神様がここまで寛大で、悔い改める者をゆるされるという点が、納得のいかないところであった。イスラエルへの同胞愛があまりにも強く、それ以外の者にも注がれている神の愛の深さが理解できていなかった。彼はさらに、神に従えないような自分こそが愛の対象であり、あきらめずに忍耐深く用いていただいていることの自覚が弱かったのである。
 この、神の愛を深くおぼえる者でありたい。自分にも隣人にも、どこまでも深く注がれている神の愛。イエス様の十字架と復活によって、悔い改める者にゆるしを与えて永遠の命を与えてくださる愛。この愛を知っていく時に私たちはより正され強くされ、いきいきとした歩み、愛に生きる歩みができる。日ごとに、神の深い愛を教えていただいて歩みたい。

(問1)ヨナは神様の命令を受けて、どのようにニネベに言いましたか?(1-4)
(問2)ニネベの人たちは、ヨナの言葉を聞いてどうしましたか?(5-9)
(問3)神様はニネベの上にくだそうとした災いを、どうされましたか?(10)