金 言 「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」詩編32:1~2

説教題 「罪赦された者の幸い」
聖 書 詩編32編
説教者 井上賛子師

 この詩篇は7つの悔い改めの詩篇のうち(6.32.38.51.102.130.143)の一つです。詩篇51篇に続く詩篇と思われます。詩篇51篇の表題には「ダビデがバテシバに通った後、預言者ナタンがきたときによんだもの」と記されていて、ダビデの生涯の内でも最も大きな罪であるバテシバとの姦淫を隠そうとして、ウリヤを殺した時のことだとわかります。この詩篇はその事件の後しばらくして落ち着き、あふれる罪の赦しの感謝を歌っている詩篇です。「いかに幸いなことでしょう」と冒頭で歌われています。

1.罪の赦しとは

 新改訳2017ではそれぞれ、「背き」「罪」「とが」と訳しています。そむきというのは、神に対する反逆という深刻なものです。罪は道を誤る、的からはずれてしまうことです。咎というのは道徳的、倫理的な面での罪、犯してしまった行為をさします。「そむき」、「罪」、「咎」に対して、それぞれ、「赦す」、「おおう、覆い隠す」、「認めない、数え上げない」といった言葉が使われています。「覆う、覆い隠す」という言葉を見てみましょう。人間が犯したすべての罪を神ご自身が覆ってくださると聖書は言います。人は自分の罪をどこまでも覆い隠すものです。けれど、わたしたち人間は他人の罪については糾弾(きゅうだん)するものです。しかし神はわたしたちの罪を覆い隠して下さるのです。

2.罪を隠す苦しみ

幸いを歌うダビデでしたが、ここに至るまでには内面的に深い苦闘があったようです。彼は3~4節で、罪赦される以前に持っていた感情について正直に告白しています。「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は」(3節)と最初その罪を隠蔽し、口をつぐむことを試みました。彼は自分の欲望のまま人妻を奪い、挙げ句の果てにその夫を計略にかけて殺し、その上、預言者ナタンに罪を指摘されるまで約一年間近く、罪を隠し通したのでした。(Ⅱサムエル11~12章) しかしその結果、心が落ち着くどころか反対の感情に見舞われたのです。良心の呵責、激しい心の苦しみです。「ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」(3節)とありますこのような深い苦しみにいるダビデのもとに、神から遣わされた預言者ナタンが訪れ、ずばり罪を指摘しました。誰であっても、自分の罪を神の前に言い表すことには躊躇するはずです。しかし、このときのダビデには躊躇はありませんでした。「わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と思い切って自分のありのままを告白するのです。「その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(5節)のです。

3.恵みが取り囲む

このゆえに、それゆえにと続きます。「敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かって、あなたのおられるうちに」(6節) 自分の罪に気づいたら、まだ赦される間に、神に告白しなさいと続きます。「大水の押し寄せる悩みの時もその身に及ぶことはない。あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる」(6~7節)のです。この人生にどんな嵐が吹き寄せようと、わたしたちは神のもとに避難するのです。神は「わたしはあなたを教え、あなたのゆくべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう」と言われます。あなたを教え最善の人生でと導こうと。助言を与え、一歩一歩を見守ると。くつわをはめなければ言うことを聞かない、馬やろばのようになってはいけません。主を信頼する者は慈しみ、恵みに囲まれるのです。この主こそが「救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方」であることを知るのです。この方しかいないことを知るのです。そして、「慈しみに囲まれる」喜びを経験するのです。
神に心から罪の告白をする者には、神は罪を覆われ赦して、罪を認められない者として下さいます。神に信頼し、神のもとにいつも身を寄せて、隠れ場として、憩わせていただきましょう。

(問1) あなたにとっての罪の赦しの御言葉はありますか。
(問2) 聖書が言う「幸いな人」とはどのような状態の人ですか。
(問3) 神の慈しみ、恵みを実感できますか。