金 言 「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ 7:11)

説教題 「天の父に求めよ」
聖 書 マタイ7章7~11節
説教者 長谷部裕子師

 今日は山上の説教の中で、イエス様が祈りについて語られたうちで、もっとも有名な聖句です。あなたにはあきらめずに祈り続けていることがありますか。

1. 祈りの三段階

 「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(7)は、もっと深くさらに熱心に祈りなさいと呼びかける祈りの三段階である。有名なこの祈りの聖句は、シンプルなストレートな力強い響きに満ちている理由は、「求めなさい/Ask」「探しなさい/Seek」「たたきなさい/Knock」がいずれも現在命令形だからでしょう。だから、その意味は、「求め続けなさい。」「探し続けなさい」「たたき続けなさい」だ。
ルカ11:5~8では、求め続ける姿をイエス様はわかりやすくたとえられている。ある人が旅先から来た友人をもてなしたいのに、自宅には食べ物が何もなかった。真夜中に別の友人を訪ねて、パンを3つ貸して欲しいと頼むが、面倒がってすげなく断られる。しかし、その人はあきらめることなく再三友人の家の戸をたたき続けた。すると結果は、「友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」(新改訳2017)本当に必要なものは執拗な祈りにならざるを得ない。
またいつでも祈り、答えられなくても失望せずに祈ることをルカ18:1~7で、イエス様は重ねて言われた。「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、やもめの訴えを退けるが、懇願を続けるやもめが「うるさくて仕方がない」という理由から、根負けした裁判官はやもめの願いをかなえる。イエス様は「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれ」ないと約束しておられる。もしかすると祈りの答えはそこまで来ているかもしれない。神様から答えを受け取るまでは、祈ることを簡単にあきらめてはならない。
「一生懸命働いてもこの世の生活において貧しい人はいるが、一生懸命祈る人で霊的に貧しい人はいない。」と言われる。心に留めたい一言だ。

2. 粘り強く祈る人々

 旧約聖書にも、粘り強く祈る人々が登場する。創世記18:22~33には、神様はなはだしく悪に満ちたソドムを滅ぼすために来るが、アブラハムはそれを知っておいのロトが住むソドムを滅びから救うために神様に何回も訴える。もしソドムに50人正しい人がいたらあなたはそれでも滅ぼしますかと。そこからアブラハムの「値切り問答」と言われる箇所が始まる。45、40、30、20、10と6回もソドムの正しい人のために、御前にとりなす。モーセも民のとりなしをした。出エジプト33:1~16で、神様がイスラエルの民のかたくなさを嫌い一緒に行かないと宣言する。モーセは神様が考え直してくださるように、捨て身の覚悟で何度もとりなす。それとは別に、どんなに熱心に祈っても聞かれない祈りもある。「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ4:3)神様は「誰のためになぜ祈るのか」動機についてみておられる。

3.天の父に求めよ

 イエス様は、神様が必ず祈りに答えられることを教えるために、人間の父親を例にあげられた。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。」(9)石はパンと形状が似てはいるが違うもので、パンを必要な人には役に立たない。パンと石と言えば、マタイ4章の荒野の誘惑を思い出す。サタンは空腹のときわざと石を指す。人間の父は悪い本性があっても自分の子には石をパンとして与えたりしない。「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7:11)とそうゆうことはあり得ないだろうと、天の父なる神様は、最善で最良のタイミングで祈りの答えを私たちに備えられる。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

(問1) かつてはよく祈ったけど、祈らなくなった祈りはありますか。なぜですか。
(問2) 神様が命じておられる祈りの三段階とは何ですか。
(問3) 今、一番願う祈りは何ですか。それをとことん祈ってみませんか。