金 言 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

説教題 「狭い門から入れ」
聖 書 マタイ7章13~14節
説教者 長谷部裕子師

「狭き門」という言葉使いは聖書から転用されて、現在の国語辞典には、就職や進学などの、競争の激しい難関を指して言うことが一般的な表現になった。そのせいか本来聖書が示す「狭い門から入れ」という意味からは、だいぶ逸れてしまったように思える。そこでイエス様が語られた真意に立ち返ってその意味を学ぶ。
初めに聖書で使われる門ということばに着目する。旧約の時代から門は城壁に囲まれた都市の入り口として重要な役割をなし、町の長老などがそこを通る者を調べて審判する場になった。(ルツ4:1)このように要所としての門の果たす役割を踏まえて、新約聖書では「門」は信仰に関わるキーワードとして、随所に使われている。たとえば「門をたたけ」(マタイ7:7~8)「信仰の門」(使徒14:27)「主の門」(Ⅱコリント2:12)などがある。

1. 滅びにいたる門は大きい

 「狭い門」とは対照的な門が「滅びに至る門」(13)である。この門は大きいので通過する際の審査基準が緩いから緊張も強いられず、通過するにはさしたる苦労もない。従って大勢の人々はこの大きく広い門を、好んでやすやすと入っていく。門を入ると行く手には広い道が開かれている。しかし注意しなければならない。この門は滅びに至る門で、行きつく先ゴールは滅びである。
滅びに至る門の門口は、人々をそちらに誘導しようと、甘いささやきや誘惑と勧誘があるかもしれない。意志の弱い私たち人間は、容易に騙されたり踊らされたりして、大きくて入りやすい門に心惹かれる。またその先も歩きやすい広い道が続いていて安楽な道は好ましく思える。大きな門を選んで、広い道を好み滅びに向かう人の特徴は「彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(ピリピ3:19/新改訳2017)彼らはこの世のことだけに画策する。
しかしキリスト者は、いつかは必ず終わりが来るこの世だけに翻弄されないで、現実はどうあれ常に信仰の目をもって、神様と永遠を仰ぎ見て備えるべきである。

2.命にいたる門は狭い

 もう片方の門は「狭い門」である。入りづらく身をかがめなければ通れない。狭い門だから入るときには、我先にではなく互いに譲り合い、腰を低くすることで謙遜を学ぶ。「門は狭く、道は細い」という言葉は困難や苦労を意味しているという。つまり狭い門と細い道は、単に狭いだけでなく、困難や苦労が伴う道なのだ。そう聞くと気持ちはたじろぐが、狭い門は「命にいたる門」で、その命とは「永遠の命」だ。
それに比べ広い道は安心で手堅く見え、一見楽をしながらすべてがうまくいくように見えるがそうではない。狭い門は万人が好んで選ぶ道ではなく、「それを見出す者はわずかです」(14/新改訳2017)とある。事実この時代の多くの人はイエス様から御国のメッセージを聞いても、彼らは広い道を選んだ。(マタイ11:20)そして今日の人々も残念ながらそれは変わっていない。

3.狭い門から入れ

イエス様は、人生には二つの門と二つの道があると言われた。片方は大きな門に広い道、多くの人は好んでこの道を行くが、行き着く先は滅びである。もう片方は狭い門、道は細く険しい。けれどもその道がたとえ苦難であっても、そこは希望があり、喜びに満ちたいのちの道なのである。「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」(詩篇16:11)
どんな人でも十字架の御業を知ってそれを信じて、心から罪を悔い改めて救いという狭い門をくぐり抜けると、その人は永遠のいのちにあずかり、神の国へと続く道に導かれる。
イエス様は「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)と言ってご自分を救いの門にたとえられた。また道についても御言葉で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と言われた。イエス様はこの門に入り私が示す道を進みなさいと言われる。私たちは恐れずためらうことなく、選ぶ人が少なくても確信をもって狭い門から入り、細い道を迷いなくして進もう。

(問1) 大きい門と広い道とは、どんな道でどこに行きますか。
(問2) 狭い門と細い道は、どこに至る道ですか。
(問3) あなたは二つのうちでどちらを選びますか。