金 言 「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。」 ヤコブ4:6

説教題 「主の前にへりくだる」
聖 書 ヤコブ4:6~10
説教者 井上賛子師

 このヤコブ書を書いたヤコブはイエスの兄弟のヤコブでした。(マタイ13:55) イエスが宣教活動されていた3年の間では、イエスを救い主として信じることが出来ませんでした。(ヨハネ7:5) イエスの十字架を目の当たりにして信じるようになり、その後エルサレム教会の指導者として仕えていくのでした。(使徒行伝1:14、15:13、第1コリント15:7) この書簡は、行いを伴う信仰について、信仰による救いは聖なる生き方をもたらすものであるということが記されてあります。
今日は「へりくだる」ということについて見ていきます。へりくだるということは、この箇所に二度出てきますが、どのような流れでこの言葉が語られているのでしょうか。

1.争いの原因

 この4章の1~5節までは、厳しいことが記されてあります。「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起きるのか」、「あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか」と。ここを新しい聖書協会共同訳では「あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか」と訳しています。「進軍する」と脚注にあるのですが、欲望が軍隊のように進軍してくる、迫ってくる、それが、人を殺すのだといいます。教会に宛てた、クリスチャンに宛てた手紙でこのような言葉が書かれてある。意図的に、また意図的でないにしろ人を傷つける、人の心を殺すほどの傷を与えるのだと言います。
 そして6節には「それとも、神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と出てきます。が、聖書協会共同訳では「私たちの内に宿った霊が、妬みに燃えるのです」と別の訳を今回取り入れています。人の争いや戦いはどこから来るのかと問うて、わたしたちの内に宿った霊が、妬みに燃えていることから来るのではないか言っています。わたしたちの心は他者に対する妬みに満ちているのではないかと。

2.主の前にへりくだる

 では、わたしたちはどうしたら良いのでしょうか。そんなわたしたちにヤコブは進むべき道を示します。6節「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、ヘリくだる者に恵みを賜う。』」 自分は今のままでいいと神の前で高ぶっている者は神から退けられますが、自分の罪を認めてへりくだる者、神にあわれみを請う者に神は恵みを与え下さいます。ここにわたしたちの救いがあります。
 第1コリント13章の愛について。愛とは何かとパウロが教えるのは、積極的に親切にしなさいとか、思いやりを示しなさいとか、何かをすることではありません。最初に出てくる寛容とは、気長という意味で、気持ちを長く持つ、すなわち、すぐに怒らないということです。それから続くのは、妬まない、高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かないとあるように、~をしないという消極的な勧めです。どれも自分の心を制することばかりです。
高ぶりや妬みを持つわたしは、どうしたら、へりくだることができるのでしょう。それは、気づきであります。自分の罪が示されることです。認罪という言葉があります。罪を認めると書きます。自分の中に、本当に醜い思いがあるということを、燃え上がるような欲望、妬み、高ぶりがあるということを認めて、神によって造りかえて頂くのです。
 ヤコブはここで「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。」と言っています。自分の罪を悲しみ、神様の前に心が砕かれて、神様に赦しと救いを求めるようにということです。
神様に従いなさい、神様に近づきなさい、神様の前でへりくだりなさい。これが神様の恵みを受けたクリスチャンの姿です。わたしたちはいつもこのことを忘れることなく、ただへりくだって神様のみこころに歩ませていただきたいと願います。
「主のあなたに求められることは、ただ広義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」ミカ書6:8

(問1) 御言葉の光で心の中を見つめてみましょう。どのような思いが心の中にあるでしょうか。
(問2) 神様と共に歩むことを妨げているものがあるでしょうか。