金 言 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(コリント第一 11:26)

説教題 「聖餐―主の記念として」
聖 書 コリント第一 11章23~26節
説教者 長谷部裕子師

十月の第一聖日、今日は世界聖餐日(World Communion Sunday)です。この聖日は世界中のクリスチャンがさまざまな教派を超えて心を一つにして、私たちにイエス様の十字架と救いを、もう一度思い起こさせ、キリストにあって一つであることを確認するために、聖餐式にあずかるという、世界規模の重要な日の一つです。世界聖餐日は、第二次世界大戦の前にアメリカの諸教派で守られるようになった日で、世界が対立して戦争へと傾く時代の中で、キリストの教会は一つであることを、共に聖餐にあずかることによって確認しようとしたことに端を発しています。
日本は74年間戦争がなく平和な国のように見えますが実際はそうではありません。依然として北朝鮮、韓国、台湾、中国、ロシアなど周囲の国々との緊張状態は続いています。世界を見ても局地戦、内戦、国家経済破綻によって大量難民が流入し、核保有国による牽制など、一触即発の緊迫した情勢が続いています。
だからこそ、世界の教会が聖餐式を同日に執り行うことで、キリストの体と血を分かち合うことで、私たちは主にあって一つであることを自覚して、分裂ではなくキリストのように和解による一致を目指して歩み寄ろうと再確認すべきです。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(ヨハネ17:22)
さてカトリック教会ではたくさんの礼典があり、その儀式を守ることが大切でしたが、それに対してプロテスタント教会は洗礼式と聖餐式だけを残しました。この二つだけが聖礼典です。それはイエス様が「洗礼を受けなさい、聖餐式を守りなさい」と教えられましたから、イエス様のみ言葉に従って、プロテスタント教会はこの二つの礼典を単なる儀式ではなく信仰の表現、また告白として残しました。パウロはコリント第一11章23節から聖餐の原理について書いています。

1. 聖餐―主を記念として行う (23~24節)

 パウロは主イエスが聖餐を、「わたしを覚えて、これを行いなさい」命じられたと伝えます。その日は主イエスがご受難のためにとらえられる夜でした。主は弟子たちと過ごす最後の夜に、これだけは伝えたいとまずパンを取りました。感謝の祈りをささげたのちに、弟子たちの目の前でパンを裂かれたのです。そして主イエスは言われました。このパンはあなたがたの罪のために、十字架において私の肉がさかれる象徴です。このパンを裂きそれを食するのは、私の死を記念して思い起こすためですよと言われました。

2. 聖餐―新しい契約を思い出す (25節)

 ここに描かれている情景は、おそらく教会の食事とユーカリスト(聖餐)が結びついていた時代の食事の情景であろうと言われます。だから「食事ののち、杯を同じようにして言われた」(25節)とあります。杯に注がれたぶどう酒は、私がすべての人にために、血を流して罪の赦しを得たことを象徴した、新しい契約ですと言われます。このぶどう酒は十字架の血を指し示しています。記念として聖餐を行うことで、ぶどう酒を飲むたびに、わたしの犠牲によってたてられた新しい契約を、あなたがたは思い起こすでしょう。
 24、25節の「記念」という言葉は、イエス様の十字架をいつも覚えなさいという意味です。聖餐式は記念するのと同時に感謝するときです。聖餐式は「ユーカリスト」という言葉が使われますが、これは喜び、感謝というギリシャ語です。ですから「イエス様の十字架を思い起こすために、記念として聖餐を行います。」そして「主の十字架は私のためでしたと、感謝の告白をするときなのです。

3. 聖餐―主の死を告げ知らせる (26節)

 イエス様はヨハネ6章で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(56)と言われました。ですから、聖餐式でパンを食べ、杯を飲むたびに、主と一体になりイエス様のまことのいのちをうちに宿す御霊の生きものとなるのです。イエス様は十字架で死んだけれども、三日後によみがえり、今は天におられますが、必ず再び来られて私たち主を信じる者を迎えに来られます。私たちの聖餐式を執行する使命は、主が来られるその時まで続きます。聖餐をくり返し行うことで、イエス様が十字架で死なれたその意味と、死からよみがえられて死に勝利して今も生きて働かれる神の子であられることを、告げ広めなければなりません。聖餐の意味を覚えて聖餐式にあずかります。

(問1) なぜ、世界聖餐日が始まったのですか。
(問2) パンを食し、ぶどう酒を飲むのは何のため、いつまで行いますか