金 言 「主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」(ルカ1:43~45)
説教題 「なんと幸いなことでしょう」
聖 書 ルカ1:39~56
説教者 矢島志朗勧士
ナザレという町に住む処女マリヤは御使いを通して、イエス・キリストを産むという知らせを受けた(1:26~38)。そして親類の祭司ザカリヤ・エリサベツ夫妻のもとへ行く。マリヤがエリサベツに挨拶をすると、エリサベツは聖霊に満たされて「あなたは女の中で祝福されたかた」と語る。また「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とも語る。自分が救い主の母になるなど、マリヤにとってまさに驚天動地のことであったろう。エリサベツはしかしそれを「なんとさいわいなことでしょう」と語ったのである
1.卑しい者かえりみてくださる神
救い主を産むことを御使いから告げられたマリヤは最後に、「お言葉通りこの身になりますように」と答えた(38)。そしてエリサベツの言葉を聞いた後に、神様への賛歌をささげた。「卑しい女」(48)という言葉の「卑しい」には「へりくだった」という意味がある。マリヤは自分の低さを知り、謙遜さを身につけていた。神様は謙遜な者に目を留めてくださる。力ある方であり、きよい方であり、あわれみ深い方である。あわれみという言葉は「悲惨な、しいたげられた人々に対する同情や親切」という意味がある。もし誰も分かってくれず、苦しく理不尽に思えることがあっても神様は知っていて、分かってくださり、かえりみてくださるのである。
2.高ぶる者をしりぞける神
神様は謙遜な者を愛することの反対に、おごり高ぶる者を一番嫌われる。人間の一番の罪は「高ぶり」であり、その中心には「自分を神とすること」や「神様との交わりを拒否すること」がある。神様との交わりを拒み、自分の物差しで物事を見て判断する。その結果、様々な争いや苦しみが生まれる。罪は自分ではどうやっても消し去ることのできないものであり、私たちは罪に縛られて不自由である。神様と向き合えば向き合うほど、自分の罪深さが分かってくる。しかし、神様の前に低くなり、飢えている者には良いもので満たしてくださるという恵みがある。
3.クリスマスの幸い
マリヤはイエス・キリストを産んだ。その誕生は、人間が罪の中に縛られている現実をあわれみ同情するかのように、人目につかない家畜小屋においてであった。そしてイエスは、人類を罪から救うために十字架にかけられ、よみがえられた。私たちが神様の前にへりくだる時、求められる応答は、イエス・キリストを救い主として受け入れることである。自分ではどうしても消せない罪が十字架によって赦され、そしてこのマリヤの賛歌にあるよう満ち足りる人生に入れることを信じることである。
三浦綾子さんが書いた小説に「細川ガラシャ夫人」がある。戦国大名細川忠興の妻玉子は、自分に仕えていたキリシタンの女性との関わりを通じて信仰を持ち、夫に仕えぬき、最後に悲劇の死を遂げるが、その死が多くの人に感動を与えた。玉子(ガラシャ)が事情により家族と離れた場所にしばらく住まねばならなかった時期がある。そばで仕えていたキリスタン女性が「もろもろのご苦難が、お方さまにとって、大きなご恩寵と思い遊ばすことができるように」という祈りをささげた。それは彼女が神父から「苦難の解決は、苦難から逃れることではなく、苦難を天主(デウス)のご恩寵として喜べるようになることだ」と教えられていたという背景から出た言葉であった。苦難を恩寵と思う、そんなことは人間の力ではできない。しかし信じる者は聖霊の助けにより、苦難をも恵みと受け取ることができるように変えられていく。
マリヤは、イエス・キリストの母となる使命を受けた。神様のご計画、あわれみの中に置かれていることを幸いと思った。神様は一人一人に対して素晴らしい計画をお持ちである。その意味で私たちもまた「幸いな、祝福された」者である。この幸いを味わう者となるために、自分が神様の前に卑しい者、低い者であることを認め、救い主という最も価値ある贈り物を受け取りたい。
(問1)マリヤがエリサベツのところに挨拶に行った時に、どんな言葉をかけられましたか(38-45)。
(問2)神様は、卑しい者をどのように扱われますか(46-55)。
(問3)神様は、おごり高ぶる者をどのように扱われますか(46-55)。