金 言 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:11)
説教題 「神様の栄光を拝する」
聖 書 ヨハネ2:1~11
説教者 井上義実牧師
どのように2020年を迎えられただろうか。今年初めて船橋栄光教会に来させていただき感謝。皆様一人一人のこの1年の祝福、教会のこの1年の祝福を祈って止まない。
Ⅰ.私たちの行き詰まり
ヨハネ1章後半はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、弟子たちを召し出されたことを記す。イエス様が働きを始められ、最初に向かわれたのがカナの婚礼であった。イエス様がいかに家庭や家族を大切にされたことかが解る。当時の披露宴は1週間続くこともあった。ぶどう酒が無くなることもあっただろう。私たちも日常生活に計算外、予想外のことが起こって来る。しかし、緊急事態が起ったことだけで話は終わってはいない。問題が起こってからイエス様は働きを起こされて行く。私たちの日常にある行き詰まり、お手上げという状態から、イエス様は働き出してくださるのである。
Ⅱ.イエス様への信望
披露宴でぶどう酒が無くなるという失敗を、新しく出発する2人にどうしても避けさせたいと誰もが思ったことだろう。母マリヤはイエス様ならばという思いで訴える「ぶどう酒がなくなってしまいました。」。マリヤはただ事実だけをイエス様に述べた。私たちは祈る時、神様にあれこれと回りくどく言い、自分の考えを押し付けようとしてはいないか。神様に必要、求めをそのままにお伝えするべきである。マリヤのありのままの求めにイエス様もすぐにお応えになる。しもべに命じられたのは水を汲むことであった。しかし、2,3メトレテス(メトレテスは原語、39リットル相当の単位)のかめが6つでは最大702リットルになる。人力で井戸まで汲みに行くことは重労働である。しかも水はあくまで水であってぶどう酒には変わらない。イエス様に絶対的な信頼がなければ誰も従えない。
Ⅲ.神様が表されるもの
水をぶどう酒に変えられたこの話から、イエス様が私たちの必要を何でも手品のように出してくださる御方と考えていけない。イエス様は必要を認められた時に働いてくださる。イエス様はこのことによって何を表されたかったのだろうか。第一には、このことによって召されて間もない弟子たちがイエス様を神として信じることである。第二には、「しるし」(11節)の意味を受け止めていくことにある。しるしは象徴であって、本体を指し示すものである。ぶどう酒は、イエス様が最後の晩餐に廻された杯、イエス様の十字架の血潮を指し示している。イエス様が十字架にかかられる時こそが「わたしの時」(4節)である。イエス様が十字架にかかられるまで弟子たちはこの後3年ほどを共に過ごす。最初のしるしからイエス様は十字架を指し示されていた。この700リットルの水を瞬時にぶどう酒に変えたという奇跡によって神様の栄光が表わされた。しかし、救い主イエス様が再び来られる再臨の栄光の前にはごく小さなものにすぎない。
イエス様の「しるし」を見たのは、弟子たち、母マリヤ、水を汲んだ僕だけであった。イエス様の側にいてイエス様を受け止めていた者だけである。この年、私たちはイエス様の「しるし」を見たい。イエス様のしるしを見ることのできるイエス様に近い者、イエス様を信じて従う者であろう。
【中高生の考えるヒント】
1.この聖書箇所はどんな場面ですか?
2.しるしは、漢字では「印」「標」「証」などが使われます。しるしとはどういう意味でしょうか。
3.奇跡がなされたことを知ることのできた人は誰ですか。どのような人たちだったでしょうか。