金 言
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」(マタイ18:35)
説教題 「赦すこと 愛すること」
聖 書 マタイ18:21~35
説教者 井上 義実 牧師
ペテロがイエス様の元にやって来て、人を赦すことを尋ねた。ペテロも赦せない人がいたのだろう。
Ⅰ.人を傷つける罪、受けた側の赦し
ペテロは人から傷つけられた罪、受けた害をどのように赦せば良いのかと尋ねた。「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合」と言っている。兄弟とは、親しい仲間のことである。親しい仲同志の人間関係が実は一番難しい。家族、友人、知人 …うまくいっているとよいがこじれると、どんどん難しくなる。ペテロは自分が害を受けた時に7回許せば良いのかと聞いた。この当時、ユダヤ人の間で3回許すという言い伝えがあったようである。仏の顔も3度までのような言い回しである。ペテロが7回と言ったのは、7回も許せば十分、イエス様だって納得してくださると思ったのだろう。ペテロは想像しなかった答えに出会う。7たびを70倍しなさいというイエス様の答えだった。490回!とペテロは思っただろう。イエス様は490回という回数を言われたのではなく、無限に赦すという意味を込められた。ペテロも、周りの人々も大いに驚いたに間違いない。
Ⅱ.イエス様のたとえ話
そこでイエス様はたとえ話を始められた。王様の元に1万タラントの借金をした人が連れてこられてきた。ここで、1タラントは6000デナリになる。1デナリは労働者の日給と言われるので、現在では1万円と考えよう。1タラントは6000万円になる。1万タラントは6000万円の1万倍になるので6千億円になり、途方もない金額になる。普通の人が生涯かかっても返せる金額ではない。男は自分も家族も奴隷になる、持ち物は売り払うことになる。ひれ伏して哀願する姿を王様はあわれに思って赦してやった。何と、心の広い寛大な王様かと思う。所がこの人が通りで自分が100デナリ、すなわち100万円を貸した仲間に出会って、怒り、赦してやらず牢屋に投げ込んだ。この話を聞いた王様は非常に腹を立てて、王様に対して恩知らず、他人に対して非情な男を牢獄に入れた。
この話は人から受けた損害、傷は小さくともよく覚えている。人に与えた損害、傷は忘れてしまいやすいという人間の性質を感じる。このたとえ話で王様は神様であり、神様は私たち滅びに向かう大きな罪をも赦してくださる御方であることを示している。神様は私たちに「もういいんだよ」と条件なしに赦されるのではなく、ご自分の独り子イエス様を十字架に付けて下さり、イエス様の尊い命によって赦される者となった。イエス様による救いを信じるならば全ての罪を赦してくださる。さらに、神様の赦しをいただいた者は人を赦すことのできる者、赦しと言うことでも神様の使者となる。
Ⅲ.一人の信仰者の赦し
「わたしの隠れ場」を記したコーリー・テン・ブームという女性がいる。オランダ人クリスチャンで第二次大戦をくぐった人である。ユダヤ人をかくまい続け、一家はナチスドイツに捕えられる。家族10人は強制収容所に送られる。過酷な体験の中で生きて帰れたのは彼女一人だけであった。戦後、テン・ブームは戦争の心の傷の癒しのためにオランダでリハビリセンターを開く。各地でクリスチャンとして証しをし、講演していた。1947年ミュンヘンの教会で説教し「あなたはもろもろの罪を海の深みに投げ入れ」(ミカ7:19)と語った。説教が終わって講壇から去ろうとした時に一人の男が近づいてきた。彼女が姉と一緒に強制収容所に入れられ裸にされて歩かされた時、そこにいた看守であった。元看守が「私はクリスチャンになった。私を赦してほしい。」と手をさし出した。テン・ブームはあまりのことに動揺する。赦さなければならないと解っていても手が出ない。赦しは感情ではなく意思であるということを思い起こした。神様により頼んで手をさし出した。この間の数秒間は数時間に感じられたとある。少女であった一人の囚人と元看守は長い時間手を握りあっていた。
赦すことは人の感情としては難しい。一生背負ったままの方もあろうか。神様に赦されたものは、赦すことが神様によってできる。赦せないという苦しみから解放され自由にされる。赦すことは忘れることである。いつまでも覚えていることは赦していないことである。また、赦すことは愛することの実に含まれているのである。人間の心や力では不可能なことを神様は可能とされる御方である。
【中高生の考えるヒント】
1.あなたには赦せない人がいますか。赦せない経験がありますか。
2.あなたはイエス様の十字架によって神様から罪を赦されていますか。
3.愛するということの実はどんなものがありますか。