金 言 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」 (14節) 

説教題 「ひとり子なる神イエス・キリスト」
聖 書 ヨハネ1章14~18節
説教者 長谷部裕子師

今年もまた、アドベントの四週間が今日から始まります。12月の入ると一年を振り返る時期ですが、今年の話題は何と言っても「コロナ・ウィルス」につきますね。私たちは「再臨」をセカンドアドベントと呼びます。再臨の前兆として聖書には「あちこちに疫病やききんが起り、」(ルカ21:11)とあります。パンデミックによって疫病コロナ・ウィルスは世界中に蔓延し、サバクトビバッタの大量発生によって今年アフリカ、中東、アジアの20か国以上に農作物が壊滅的な被害が広がったそうです。これらの出来事は終末を思わせます。さてⅠアドベントではイエス・キリスト様とは、どうゆうお方なのかをもう一度確認してゆきます。

Ⅰ.天から人となられてこられたキリスト

今日の中心聖句14節を新改訳2017で読んで見ます。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」新しい翻訳では天におられる神様が地上にくだられて人間の子としてお生まれになり、私たち人間として生活されたことがシンプルに伝わってきます。肉体は人と訳され、宿ったという表現が住まわれたになったことで、新しい翻訳はわかり易くなったなと思いました。どうして神様は人となる必要があったのですか。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(ヘブル2:14~15/新改訳2017)クリスマスといえば、私たちは幼子イエス様が飼い葉おけに寝かされたのどかな光景を思い出します。しかしそのはるか向こうには十字架と復活という本当のクリスマスストーリーがあるのです。

Ⅱ.創造の初めからおられたキリスト

イエス様は地上にはダビデの子孫として(ローマ人1:3)ました。イエス様が誕生される6カ月前にバプテスマのヨハネは生まれていました。にもかかわらず彼は15節で『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』と言います。なぜこんな不思議なことを言ったのでしょう。それはイエス様が父なる神様と共に創造の初めからおられた方だと知ってからです。本来のイエス様のお姿を3人の弟子たちは一度だけ見ています。「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。」(マタイ17:2)しかし地上の生涯では、その他には神の御子としての輝きに満ちた栄光のお姿を現すことはありませんでした。むしろ「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、…人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、…それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6~8/新改訳2017)ここでも心温まるクリスマスの背景には十字架の死が見えるのです。

Ⅲ神を説き明かされたキリスト

神様のご存在を信じられずに疑う人々はこういうかもしれません。神がいるなら見せて欲しいと、しかし肉眼で見えるものはすでに神ではありません。ところが18節には「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」とあります。たしかに人が神になることは絶対にありえないとしても、全知全能の神ならば人になることはたやすいであろう。事実、神が人となられたからこそ、飼い葉おけに寝かされた嬰児をマリヤはその両手で抱きしめ、羊飼いや博士たちは間近に見ることができたのです。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について…この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――」(Ⅰヨハネ1:1)イエス様は弟子のピリポが「わたしたちに父を示して下さい。」と言われるのに対し「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14:9)と約束されました。イエス様は神を説き明かされたどけでなく、十字架の死をもって神の愛の真実と慈しみをあらわし、復活はキリストにある新しいいのちを人にあたえるために神の御子は誕生されました。クリスマスに起こった出来事は、神様にしか思いつかない、神様にしか実行できない驚異のお話でした。わたしたちはクリスマスのなかにも十字架をみいだし、神を仰ぎ見ます。