金 言
「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」(ルカ1:38)
説教題 「備えていること」
聖 書 ルカ1:26~38
説教者 井上義実牧師
早いもので今日から待降節第3節を迎えた。マリヤへの受胎告知、マリヤの賛歌マグニフィカートの場面である。宗教画が主だった中世の画家たち(14世紀のジョット・ディ・ボンドーネに始まり、17世紀のエステバン・ムリーリョ、ニコラス・プーサンに至る)の最大の主題の一つだった。クリスマスのできごとの中で出発点となり、中心点となり、最高の頂点であり、決定的なできごとであった。
Ⅰ.語りかけの重大さ
御使いガブリエルがナザレのマリヤのもとにやってきて、神様のメッセージを語った。神様は救い主をこの世に送るために母親となる一人の女性を必要とされた。歴史上たった一度限りの、全人類の命運がかかる重大な働きをどれほど慎重に進められただろうか。この大切な知らせを神様ご自身が会うことはできないので、御使いガブリエルを遣わされた。聖書中、主の使いが神様のメッセージを伝えに行く(アブラハム、ギデオン…)。同じ1章で御使いガブリエルは祭司ザカリヤにバプテスマのヨハネの誕生を告げた。神様に仕える祭司であり、人生経験豊富な年配であったザカリヤは天使からの語りかけを疑うかのようであった。ヨハネが生まれるまでは口が利けなくなってしまう。この時、マリヤの心も胸騒ぎがし、思いめぐらす。不安、恐れ、疑いさえもあったかも知れない。それらを乗り越えて神様の言葉を信じていく信仰があった。信仰による受け答えを見るときに、神様が選ばれたただ一人の女性であったことを知る。信仰によって私たちは神様の語りかけを聞き、応答できるものであることを知る。
Ⅱ.語りかけの不可思議さ
マリヤはヨセフと婚約中だった。マリヤは男性との関係はなかったので子どもが生まれることは全くあり得ないことである。35節に「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおう」とある。天地創造の創世記1:2には「神の霊が水のおもてをおおっていた」とあり、同じくおおうという言葉がある。イエス様の誕生は、無から有を創られた天地創造にも等しい神様の御業である。しかし、現実には、婚約中のマリヤに父親の解らない子どもが生まれるならば、当時のユダヤ社会では姦淫の罪と同じであった。マリヤにとって神様に従うことが命がけの行為であった。神様からのメッセージであるから、ヨセフに伝えても良かっただろうが、マリヤは一言もヨセフに弁明しない。婚約者ヨセフには大きな誤解を受けることになる。黙して従うというマリヤの揺るがない決意、どんな中にあっても、神様が最善に導かれるという信仰の姿勢を見ることができる。
Ⅲ.語りかけへの応答
マリヤは38節「お言葉どおりこの身になりますように」と従う。マリヤはここから新しく踏み出していく。今までも神様を心から信じていたマリヤであるが、この時からのマリヤは新しいマリヤである。イエス様を身に帯びていくマリヤである。マリヤはヨセフに神様が語られるまで黙っている。身重でのベツレヘムへの旅も、手伝いもいない馬小屋での初めての御産も大変であった。生まれたばかりの赤ちゃんのイエス様を連れてベツレヘムからエジプトへ逃げなければならない。… イエス様の母となったマリヤは、次々に起こって来る荒波に身をもまれるような歩みだった。その中にも、イエス様が共におられる歩みであった。私たちもマリヤほどではないが、時には嵐の中の歩みもあるだろう。私たちにとって、イエス様を信じることは、何も変わらないことではない。イエス様は目に見えないが私たちを導かれ、私たちの内にこの御方を持つものである。イエス様を自分の身に帯びていく生き方である。神様に導かれ、持ち運ばれていく生き方である。そこで神様の真実、神様の恵みを体験さいていく。
この箇所を開く度に、事の重大性も、身の危険も、誤解も誹謗中傷も十分に解っていながら即座に従うマリヤの信仰、従順、献身に驚きを感じる。マリヤの日々の祈りと黙想の信仰の姿勢が深いものであったこと、その信仰に裏付けられた歩みが神様の前に真実であったことからなされた実である。神様はマリヤの信仰をご存知であったように、私たちの信仰のあり方も知っておられる。私たちの信仰は弱く、乏しくあっても、一人一人に、それぞれの神様のご期待がある。マリヤに神様が共におられたように、クリスマスに生まれたイエス様はインマヌエルの神様である。マリヤは困難や誤解の中にあっても神様に従った。イエス様がこの世に生まれてくださったのは、人としての苦しみや痛みを共に味わい、神様に執り成してくださるためでもある。私たちもどんな中も、人に説明できないような戦いであっても、全てを越えて、最も良き理解者でいてくださるイエス様に従っていこう。