聖 句  「わたしにとっては、生きることはキリスト」(ピリピ1:21)

説教題 「わたしにとって生きることはキリスト」
聖 書 ピリピ1章12~21節
説教者 長谷部裕子師
 
 どなたの人生にも何かが始まる時があるとすれば、それが終わる時が必ずある。そういう意味では今年度限りで牧師職を退くことなったわたしにとっては、講壇のご用に立つ最後の記念すべき聖日です。思い起こせば船橋での初礼拝は2011年4月からで、あれから10年の月日が経とうとしている。10年の歳月を振り返って、足らざるご奉仕の数々を深くお詫びします。この礼拝に聖書はどこを開こうかと考えていたとき、御霊の促しと言いましょうか「わたしにとって生きることはキリスト」ということばが脳裏にポカンと浮かんだので、その箇所を開かせてください。

Ⅰ気概を示すパウロ (12~14)

 このピリピ書はパウロによって書かれたが、その執筆場所は、パウロが61年ごろローマで軟禁状態となり囚われの身になっていたとき(使徒28:23~31)で、第二回伝道旅行で訪れたピリピの信徒たちに向けて書いたとされるのが有力な説である。13節の「兵営全体」(口語訳)とは、「親衛隊」(新改訳2017)のことで、それはローマの皇帝を警護する部隊を指す。パウロが親衛隊に四六時中見張られて不自由な生活を強いられている理由は、キリストのためであることは誰の目にも明らかなことでした。しかしパウロのすごいところは、自分の身に起きた事実を少しも不都合とは考えず「かえって福音の前進に役立った」と悠々と評価を下していることです。パウロのありさまを見たキリストにある兄弟たちの多くは、「主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るように」(14/新改訳2017)なったのです。パウロは気概と呼べるような困難を乗り越えようとする強い気性が感じられますが、自然体で負け惜しみも強がりもありません。起きてしまった出来事のマイナス面だけにうろたえることなく、異なる視点から主のまなざしに合わせて見ています。
 わたしも昨年一年はコロナ禍に加えて、持病の症状が進んで教会でのご奉仕が難しくなりました。寂しさは残る一方で働く人が定年を迎える60歳を越えた自分にとっては、キリストにある人生を見つめ直す良い区切りと最近は思えるようになりました。船橋の教会にとっても新年度は担任牧師不在で大変ですが、信徒の方の一致と協力を進めながら、次回は優れた器が着任されるように祈りましよう。

Ⅱキリストが宣べ伝えられる喜び (15~18)

 パウロの生き方から、「名を捨てて実(じつ)を取る。」ということばを思い出しました。この意味をご存知かもしれませんが、世間的な評判や名声を重視せず、実質的な利益となるほうを選ぶことです。かたやパウロに対するねたみや対抗心から、キリストを伝えようとされたことでパウロは苦しみます。他方はパウロをよく理解して善意から愛の心でキリストを伝える人たちもいました。しかしパウロは双方を分け隔てていません。むしろ「見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」(18/新改訳2017)と手放しで両者をほめています。それどころかパウロは自分の名声や評判がたとえ落ちたとしても、「しかし、それが何だというのでしょう。」と意にも介しません。パウロにとって実質的な利益とは、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられていくことだけで嬉しかったのです。わたしにとってお手本としたい潔い生き方です。

Ⅲ私にとって生きることはキリスト (19~21)

 パウロは生命の保証などない獄中で、自分の唯一の願いを吐露しています。それは「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」でした。生死の狭間をさまよう投獄の体験で、パウロの胸中を揺るがしたのは、おそらくこの告白だったかもしれません。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)この告白にわたしたちも頷くでしょう。なぜならわたしたちはバプテスマを受けた時点で、誰もが一度は古い自分のお葬式をしたのです。そして「キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:8)とあるように、キリストの復活によっていただいたキリストのいのちが我がうちに脈々と生きている新しいいのちだからこそ、「私にとって生きることは、=(イコール)キリスト」になるのです。

 船橋の皆様へお別れを言う時間が近づきました。最近私は福音を周囲に伝えるきっかけとして15秒の証しを秒針とにらめっこしながら練習しています。
「私はかつて将来何になりたいのか、人生の目的がわからなくて長い間悩みました。イエス様に会って難問は二つとも解決して、今は幸せと感謝満ちています。あなたにはこんな経験がおありですか?」
長年の謎だった人生の目的は、私の身によってキリストがあがめられることなのだと今ではわかります。だからこれからも私にとって生きることはキリストなのです。