金言
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」(エペソ人への手紙1:2)

説教題 「聖徒とされる恵み」
聖 書 エペソ人への手紙1章1~2節
説教者 栗本高仁師

 本日より、エペソ人への手紙から順番に御言葉を聞いてまいります。今日はこの手紙の概要と冒頭の挨拶部分から、「私たちが一体何者なのか」そして「何ゆえにそのような者なのか」ということを教えられてまいりましょう。

1)エペソ人への手紙

 私たちが手紙を書くとき、そこには目的があります。パウロも同様で、仲間たちとともに生み出してきた多くの教会のためにある目的を持って、手紙を書きました。その目的には、その教会固有の問題に対処するものもあれば、そうでないものもありました。エペソ人への手紙を見るとき、そこには個人名やエペソ教会の具体的な課題などは記されていません。つまり、この手紙は一般的な内容を扱う説教のような性質に近いと言えるでしょう。「一般的」と聞くと面白みがなさそうに聞こえるかもしれません。しかし、ある意味でそのことは、「時代を超えて今を生きる私たちに語りかけられている言葉である」ということができます。
 この手紙の全体を見ると、1〜3章と4〜6章の二つに分けることができます。前半は「教会とは何か」という基礎が語られ、後半は「では、教会はどう歩むべきか」という実践が語られています。

2)私たちは何者かー聖徒とされている

 手紙の書き出しは、差出人と宛名で始まっています(1節)。これは、当時の一般的な形式であり、いずれのパウロの手紙もあまり変わり映えはしません。そのため読み飛ばしてしまいそうですが、実はこの宛先の部分に「教会とは何か」ということが示唆されています。パウロはエペソ教会の人々を「聖徒」と呼ぶのです。
 では、「聖徒」とはどのような意味でしょうか。これは元々、旧約聖書において、イスラエルの民に使われていた表現です。彼らは、神様の使命を果たすために特別に選ばれた民でした(申命記7:6)。しかし、それは「彼らが特別であった」からではなく、「神の愛と忠実さ」のゆえでした(申命記7:7-8)。そして、パウロが教会の信徒たちを「聖徒」と呼ぶ時も、彼らが「聖徒」にふさわしい人々であるから、ではありません。事実、問題だらけのコリント教会の人々をも「聖徒」と呼ぶのです。私たちも同様にふさわしくはないかもしれませんが、神様の愛と忠実さのゆえに、「キリスト・イエスにあって」、「聖徒」とされているのです。

3)何ゆえにそのような者であるのかー神の恵みによって

 「神の愛と忠実さ」のゆえに、「聖徒」とされているということを見ましたが、パウロはそのことを一言で「恵み」と言います。ですから、パウロは、冒頭部の最後に、「恵みと平安があなたがたにありますように」(2節)と祈ります。この「恵み」という言葉は、エペソ書全体を通してだけでなく、パウロの全ての手紙を読むにあたって非常に重要な言葉です。なぜでしょうか。
 それは、神の救いの御業は、全て無償の贈り物(フリーギフト)であるためです。私たちは「神の恵みにより…値なしに義と認められる(罪なしとされる)」のです(ローマ3:24)。私たちが支払ったものは何もありません。神が愛するひとり子をささげて、「ご自分の血」の代価をもって、私たち教会を買い取ってくださったのです(使徒20:28)。だからこそ、私たち一人ひとりも間違いなく「聖徒」とされているのです。
 また、この神の恵みは私たちの内に働き続けます。そして、この恵みが私たちを「聖徒」にふさわしく変え続けていきます。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」(IIコリント12:9)と言われるように、主は圧倒的な恵みを私たちに注いでくださっているのです。何という恵みでしょうか。

 神の恵みによって「聖徒」とされた私たちは、なおこの「恵み」によって、進ませていただきましょう。