金言
「王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。」(出エジプト記 2:10)

説教題 「救いのために用いられる母」
聖 書 出エジプト記2章1~10節
説教者 栗本高仁師

 本日は母の日です。その起源は、1905年5月9日に亡くなったミセス・ジャービスを追悼しようと、娘のアンナ・ジャービスが教会で白いカーネーションを配ったところのようです。当然のことですが、私たちそれぞれには一人の母がいます。それはどれほど偉大な人物であったとしても同じで、母親がいなければ、その人はこの世に存在することも、偉大な働きをすることもできません。あの偉大な人モーセも同様です。イスラエル民族をエジプトから導き出すというその素晴らしい働きも、モーセの二人の母の存在なくしてはあり得ませんでした。

1)神に与えられた知恵を用いる

 一人目は実の母親です。ここでは彼女は「レビ人の娘」とだけ記されており、結婚をした後、みごもって男の子を産みます。普通であれば、それは喜ばしいことでしたが、この時は特別な状況でした。イスラエルの民は、エジプトに移住後、数が増えて、エジプト人にとって脅威となります。そこで、エジプトのファラオは「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない」(1:22)と命じていたのです。しかし、彼女は「その子がかわいいのを見て、三ヶ月間その子を隠しておいた」(2節)のです。しかし、隠し通すことができなくなったので、彼女は知恵をしぼって、一つの行動に出ます。それは、その子をパピルスのかごに入れて、ナイル川の葦の茂みに置く、ということでした(3節)。瀝青と樹脂を塗られたパピルスのかごはその子の命を守ってくれます。そして、葦の茂みに置くことで、かごが流されることなく、誰かに見つけてもらえるようにしたのです。まさに、今彼女ができる最善のことでした。
 神様は私たち一人ひとりにも知恵を与えてくださっています。そして、神様はその知恵を用いて、御業をなされようとされます。それぞれに与えられたタラントを神様のために用いさせていただきましょう。

2)神を恐れる信仰

 モーセの母は、確かに知恵を働かせて最善のことは行いましたが、三ヶ月隠していたことも、川に置いておくことも、かなりリスクの高いものでした。彼女や他の家族まで殺されてしまいかねないし、モーセが生きのびる可能性はかなり低いと考えられたでしょう。なぜ彼女はこのような勇気ある行動をとることができたのでしょうか。ヘブル11:23には、「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです」とあります。つまり、彼女が知恵を働かせて、勇気ある行動ができたのは、「人を恐れる」のではなく、「神を恐れる」信仰があったからなのです。それは、最善を尽くして、最後は神に委ねるという信仰です。
 私たちも様々な悪の影響を受けて、苦境に立たされることがあるでしょう。しかし、そのような時にこそ、この世界を治めておられる神様、そして神様の御力に希望を置き、委ねるお互いとさせていただきましょう。

3)私たちの想像を越えて働かれる神

 神様はイスラエルの救いのために、モーセの実の母だけでなく、もう一人の母を用いられました。その母とは、何と驚くべきことに、彼らを苦しめているファラオの娘でした。彼女は水浴びをしようとナイル川にやってきた時に、かごに入っている男の子を見つけたのです(5,6節)。彼女はすぐに、その子がヘブル人であることに気づきますが、あわれみかけるのです。遠くから様子を見ていたモーセの姉の機転の利いた発言によって、モーセは実の母親に大きくなるまで育てられ、その後は王女の息子となります(7-10節)。
 神様は、二人の、しかも違う立場の母を用いて、救いの御業の準備をなされたのです。私たちの信じている神様は、このように私たちの想像をはるかに越えて働かれるお方です。そして、この名もなき母たちを用いられた神様は、私たち一人ひとりを必要不可欠な存在として用いようとされているのです。この神にこれからも信頼し続けて、歩むお互いとさせていただきましょう。