金言
「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」(エペソ人への手紙1:7)

説教題 「キリストにあらわされた神の奥義」
聖 書 エペソ人への手紙1章7~10節
説教者 栗本高仁師

 今から50年前のこの日(1972年5月15日)に、戦後アメリカの統治下にあった沖縄が日本に返還されました。パウロは、神様からの祝福の二つ目として、奴隷状態からの解放を喜びます。

1)罪の奴隷からの解放という喜び

 パウロは奴隷状態から解放されたことを「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、…を受けています」(7節)と言います。「贖い」という言葉を、私たちが日常生活で使うことはありません。しかし、ユダヤ人であるパウロにとって「贖い」は馴染みのある言葉だったのです。それは、出エジプトというユダヤ人にとってとても大切な出来事と深く関連する言葉だからです。イスラエルは、沖縄がアメリカに支配されていたように、エジプトに支配され、奴隷とされていました。しかし、神様はその苦役をご覧になって、イスラエルを贖ったのです(出エジプト6:6)。パウロは、この救いの出来事を思い起こしつつ、それにまさる喜びを覚えていたのです。
 なぜなら、イスラエルの民にとってだけでなく、全人類にとっての敵である「罪」の奴隷から解放されたためです。神が永遠のはじめから、キリストにあって私たちを「聖なるもの」「愛する子」に選んでくださいましたが、キリストを信じる私たちは、実際に罪の支配から解放され、恵みと愛に満ち溢れる「神のもの(神の子)」とされたのです。この贖いは、すでに今受けている恵みであることを覚えつつ、喜び賛美いたしましょう。

2)キリストの血による代価によって実現

 では、罪の奴隷から私たちはどのように解放されたのでしょうか。当時のローマ世界は、奴隷制度が確立された社会であり、奴隷を自由にするためには、代価を支払わなけらばなりませんでした。イエス様はその文化で生きておられたので、「人の子も、…多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)と言われました。つまり、イエス様は、罪の奴隷からの解放の「代価」として、ご自分のいのちをあの十字架で支払ってくださったのです。そのためにパウロは「その血による贖い」(7節)と言うのです。
 しかも、その代価は完璧なものであったがゆえに、「永遠の贖い」が成し遂げられたのです(ヘブル9:12)。ですから、私たちの罪は、今まで犯してきたもの、これから犯すものもの、気づかずに犯したもの全てにおいて、「赦されている」のです(7節)。
 罪の贖い、罪の赦しは、このキリストの血以外にはよりません。だからこそ、パウロは再度「恵み」を強調し、この恵みが私たちの上にすでに注がれ、十分に満ちあふれていると言うのです(8節)。まさに、この「贖い」の御業に神の奥義があらわされているのです。

3)贖いは全被造物に及ぶ

 私たちは、罪の贖いを自分個人のものにとどめてしまうことがあります。しかし、パウロは、この贖いという神の奥義は、個人にとどまらず、全人類、さらに全被造物に及ぶと言います。「その奥義とは、…天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」なのです(9-10節)。
 天と地は、確かに罪ゆえに、断絶状態となってしまいました。今も世界中で起きている自然災害、疫病、戦禍の現実を見るとき、この断絶状態が続いていると言わざるを得ません。しかし、キリストを信じる私たち一人ひとりの集まりである教会において、確かにこの贖いは現実となっています。そして、私たち教会を通して、その現実が広がり、すべてのものがキリストにあって一つとなるという「神の奥義」が実現していくのです。今はその完成の途上ですが、私たち教会は世界の希望として、この地に立てられているのです。

 今、私たち教会ができることは、キリストにあるところの「贖い」と「罪の赦し」を喜び、また希望を告白し続けることではないでしょうか。