金 言 
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」
(マタイ5:16)

説教題 「幸いな人の生き方」
聖 書 マタイ5:13~16
説教者 井上義実牧師


 前回は4月10日に船橋栄光教会礼拝に来会し、担任教師任命式、運営委員任命式、CS教師任命式を執り行った。2か月振りに皆様と礼拝を共に献げることができ感謝。 

Ⅰ.幸いな人とされる

 イエス様の説教で、一番有名であろう山上の説教が開かれた。マタイ5~7章の長く豊かな箇所になるが、序論と言うべき5章1~12節は8つの祝福される者が記されている。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害される者が上げられる。一般にはその反対が祝福と思われるだろう。この世では余り評価されないことがらが取り上げられている。神様の真理に生きることは、この世が求める富、名誉、成功 …と違う生き方が示さる。イエス様が満ち足らせてくださる生き方は自分の利己心、満足ではなく、人と共に生きる生き方に導かれる。自らを満たす幸いであり、他人の幸いを求め、他人を喜ぶ生き方である。イエス様の十字架の贖いによって私たちは、神様にある幸いを持つ者とされている。その後に、幸いな人の使命が2つに集約されている。 

Ⅱ.幸いな人の生き方、地の塩として

 塩は大切な調味料であり、人の生活には適量の塩が必要である。塩が無ければどんなに素晴らしい料理も味気ないものになる。塩は腐敗を防ぐ防腐剤として長く使われてきた。食材を腐らせない働きを持つ。無味乾燥の、味気のない、堕落し、腐敗した世の中を引き締めることが必要である。神様によって幸いとされた人は、地の塩としての使命がある。
1)塩は大切なものだが、粒のままでは喜ばれない。粒のままでは吐き出されてしまう。溶け込み、姿が見えなくなってこそ働きができる。自我という利己心から離れることによって人を生かすことになる。
2)塩味は濃くなっては困る。適量として少しであることが求められる。私たちは、この日本に信仰者が少ないと嘆く。例え、少なくあっても働くことのできる尊い存在であることを忘れてはならない。
3)聖書には、塩のきよめの働きが出てくる。レビ記(2:13)には「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。」とある。塩は神様に受け入れられる、きよさをもたらすものである。 

Ⅲ.幸いな人の生き方、世の光として

 光は私たちの世界を成り立たせている基本の一つである。光がない世界では豊かな命は育まれない。光の反対は闇であり、神様は光なる御方である。イエス様はまことの光として世に来られた(ヨハネ1:9)。闇は世の中に存在し、私たちの心にも及ぼうとする。闇が支配しようとする世に対し、人の心をむしばもうとする闇に対して、神様によって幸いとされた人は、闇を照らしていく、闇を追いやる使命がある。
1)太陽の光はエネルギーをもたらし世界を支えている。人間はソーラーパネルで発電するが、植物は太古より光エネルギーの最大の受容体である。神様の光は私たちを動かす霊的なエネルギーとなる。ヒマワリが太陽に向くように、私たちも神様を正面にして力を受ける者である。
2)光は闇を消し去る。私たちは世に対して闇を照らす者として、神様のともしびを掲げる者である。特に、終末が近いと思えるこの時代に、油を絶やさなかった賢い乙女のようになろう。
3)この世の闇が深くなっても、私たち自身の心が闇に支配されないように、光を内に持ち続けなければならない。光は明るさを、暖かさを、穏やかさをもたらす。私たちはこの世に対して、光を持って、和らぎをもたらす者である。 
  
 私たちが地の塩、世の光とされるのは、(16節)「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」とある。私たちは私たちの存在によって、神様を表わし、指し示す者なのである。