金言
「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。」(ルカの福音書15:22-23)

説教題 「父なる神様の姿」
聖 書 ルカの福音書15章11~24節
説教者 栗本高仁師

 今日は父の日です。起源は、父子家庭で育ったソノラ・スマート・ドットという女性が、教会で母の日があることを知り、父親への感謝を表す日も必要だということで始まったようです。
 私たちには誰もが肉親の父親がいますが、この天地万物を創造された神様は私たちの「父」であると、聖書は語ります。この有名な放蕩息子のたとえ話から、「父」としての「神様の姿」をご一緒に見てまいりましょう。

1)立ち帰る場所がある

 ある人に二人の息子がいました。その弟息子が父に対して、生前贈与を求めます(12節)。それ自体は可能なことでしたが、財産を受け取るや否や「すべてのもの」を持って遠い国に旅立つという彼の行動は(13節)、父に対する侮辱的な態度の表れです。しかし、実はこれが私たち人間の姿です。神様から遠く離れようとする罪人の姿です。
 神様から離れるとき、私たちはコントロールが効かなくなります。それゆえに、弟息子は「放蕩して、父からの財産を湯水のように使ってしまう」(13節)のです。彼は財産を失っただけではありません。さらに、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることに困り、誰も彼に食べ物を与えてくれなかったのです(14-16節)。彼は、生きることに必要なものすべてを失います。 しかし、弟息子にはまだ完全には失っていないものがありました。それが、「父」と「父の家」です。彼は「我に返って」、父のところにはあり余るほどの食べ物があるがゆえに「父のところに行こう」と言います(17節)。罪ゆえに、父なる神様から「遠く離れて」しまった私たちにも、この弟息子のように「帰る場所」があるとは何たる幸いでしょうか。

2)子としての資格がないと思う私たち

 弟息子は、単に父のところに帰ろうとしたわけではありません。彼は、自分がどれだけのことをしたかを理解していました。そのため、父のところに行って、このように言おうと決意します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(19節)。彼は「息子」としてではなく、「雇い人」として父の元に帰ろうとしていたのでした。
 この行動は、ある意味で常識的な判断でしょう。父に侮辱的な態度をとり、家を出て、しかも分与された財産をすべて使い果たし、ノコノコと帰ることは、誰がどう見てもできないことです。私たちも、罪の意識が深まれば深まるほど、「父なる神様の元へと帰ることなどできない」と考えてしまうのではないでしょうか。私たちの罪は、それほどに深刻なのです。

3)常識外れの父の姿

 そのような弟息子に対して、父はどのように彼を迎えたでしょうか。まず驚くべきことに、父は「まだ家まで遠かったのに」彼を見つけて、走り寄ったのです(20節)。その日たまたまということではないでしょう。毎日、弟息子の帰りを待っていたのです。そして、何と父親の方から彼の方に駆け寄るのです。当時の父親としてはあり得ない行動でした。
 それだけではありません。息子が考えていた言葉を父に言いますが、「雇い人の一人にしてください」という最後の一言を、父親は遮ります。そして、一番良い服、指輪、履き物、そして最上の子牛を引いてきて「食べて祝おう」と言うのです(22-23節)。父親は「息子と呼ばれる資格はありません」といった彼を、「いや、あなたはわたしの愛する子だよ」と言うのです。これが、私たちの父なる神様のお姿です。たとえ、今まで私たちがどれほどの罪を犯してきたとしても、子である私たちの帰りを待ち、帰ってきた私たちを躊躇なく「愛するわが子」と呼んでくださるのです。

 私たちの常識とは異なるこの「父なる神様のお姿」を覚えさせていただきましょう。そして、父なる神様から離れてしまいやすい私たちですが、いつもこの愛なる「お父さん」の元に立ち帰り続けましょう。