金言
「また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ人への手紙1:19)

説教題 「神の大能の力を知る」
聖 書 エペソ人への手紙1章15~23節
説教者 栗本高仁師

 私たちは家族のことをどこまで知っているかと思わされることがあります。しかし、その前に私たちを造られた神様ご自身をどれだけ知っているでしょうか。パウロは、ここまで神様が私たちをどれほど祝福してくださったかを賛美しました。しかし、さらにエペソの信徒たちに「神を知ってほしい」と祈るのです(17節)。

1)神を知るとは?ー神の力強さを知る

 それでは、「神を知る」とは具体的にどういうことでしょうか。パウロは、3つのことを知ってほしいと祈ります。一つ目は「神が与える希望」、二つ目は「天で用意されている栄光」、そして三つ目が「神の力の偉大さ」です。ここで興味深いことは、一つ目、二つ目はあっさりと説明し終えますが、なぜか三つ目だけが、一文が長く、くどい説明になっているということです。この一文に「大能」「力」「働く」「すぐれた力」「偉大」と、力に関する言葉がふんだんに使われているのです。つまり、パウロは「神の力の偉大さ」がどれほどのものか、それを知ってほしいと願うのです。
 実は、私たち教会が一番知らなければいけないことは、この「神の力」なのです。教会が教会であり続けるためには、私たちの力ではなく、私たちの内に働く「神の力」を知る必要があるのです。私たちはどれほど知っているでしょうか。

2)神の力とは?ーキリストのうちに表された力

 それでは、「神の力」とは一体どのようなものなのでしょうか。それは、抽象的で、実態のないものではありません。神様は、すでにこの力を「キリストのうちに働かせ」てくださり、明らかにしてくださっています(20節)。それは、キリストを「よみがえらせた力」であり、キリストを「昇天(右の座への着座)させた力」です。いまだかつて「死者から復活した者」(一時的によみがえった者はいたが)はいたでしょうか。いまだかつて、神の右の座に座った者がいたでしょうか。答えはNOです。神様は、このような誰も持ち合わせていなかった「偉大なる力」を、現実のものとしてくださり、私たちが理解できるように示してくださったのです。
 そして、この神の力が私たち信じる者にも働くのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。それは、昇天され、すべての力の上に立たれた「キリスト」が、教会の「かしら」であるためです。教会は、そのキリストのからだであるがゆえに、キリストの内に働いた神の力が、教会なる私たちの内にも流れてくるのです。どれほどの恵みでしょうか。

3)神の力を知るには?ー聖霊によって目を開いていただく

 では、私たちは具体的にどのようにして「神の力」を知ることができるのでしょうか。聖書全体を理解することも、神学的な知識を身につけることも、とても大切なことです。しかし、「神についての知識を習得すること」と「神を知ること」は、似ているようで異なることです。そのことを誰よりもパウロ自身が知っていました。聖書の知識においてなら彼の右に出るものはいませんでした。しかし、彼はイエス様のことがわからなかったがために、神様の力を十分に知らなかったのです。そのような彼は「天からの光に照らされて」、心の目が開かれたのです(使徒26:13)。だからこそ、パウロは「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈るのです(17節)。聖霊こそが、私たちの心の目をも開き、神の力を十分に知らせてくださるのです(18節、ヨハネ16:13)。

 今私たちは、「神の大能の力」をどれほど知っているか(信頼しているか)と問われるのではないでしょうか。イエス様の復活と昇天において具体的に表された「神の力」を知るために、どうぞ私たちも互いに聖霊を求める祈りをさせていただきましょう。