金言
「こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ人への手紙2:15-16)

説教題 「キリストこそ私たちの平和」
聖 書 エペソ人への手紙2章11~22節
説教者 栗本高仁師

 「平和とは何か」人類はこの問いを考え続けつつも、同じ過ちを犯し続けています。もう一度、私たちはこの世界を造られた神様の視点からこの問題を考えていく必要があるのかもしれません。パウロは実に端的に「キリストこそ私たちの平和です」(14節)と語ります。なぜ、キリストこそ平和なのでしょうか。

1)神様との間の関係

 それは、何よりもまず、キリストが「神様と私たちとの間」(縦の関係)に「平和」をもたらしてくださったためです。ここまでパウロは、直接的にはエペソの信徒たちに対して「異邦人クリスチャン」と呼ぶことはしていません。しかし、ここでは「あなたがたはかつて、…異邦人でした」(11節)と明確に言います。そして、異邦人であるがゆえに、どれほどまでに「キリストから遠く離れて」、全く「神もない者たち」であったかを思い起こさせます(12節)。しかし、彼らは「キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」(13節)。つまり、それは「十字架による神との和解」です(16節)。決して聖書の神様と交わることがなかった私たち異邦人も「一方的な恵み」によって、神様と和解させていただきました。それゆえに「キリストこそ私たちの平和」なのです。

2)私たち同士の関係

 キリストは「私たち人間同士」(横の関係)における「平和」も、もたらしてくださいました。パウロはここで「二つの(もの)…」(14,15,16,18節)という言葉を繰り返します。これは、「異邦人」と「ユダヤ人」のことですが、両者の間には、かつて「隔ての壁である敵意」が存在していました。「神に近い者」と自負していたユダヤ人は、「神から遠く離れた」異邦人に対して、あらゆるところで壁を作っていたためです。
 しかし、イエス様は進んで異邦人と食事をされ、「隔ての壁」を壊し続け、ついに「敵意」そのものを「十字架によって滅ぼされました」(16節)。そのことによって、異邦人もユダヤ人も、男も女もなく、「新しい一人の人」となり、平和が実現したのです(15節)。「平和」を語りながらも、最終的には武力によってそれを実現しようとする私たち人間です。しかし、今日私たちは、「暴力」ではなく「十字架(苦難)」こそが、私たち人間同士に「平和」をもたらす、ということを覚えさせていただきましょう。それゆえに「キリストこそ私たちの平和」なのです。

3)平和をつくりだしていくために

 神様との間の関係も、私たち人間同士の関係も、どちらも「キリストの十字架」によってのみ「平和」が実現することを見てきました。つまり、私たち教会は、この両方の「平和」が実現する「場所」なのです。「神との平和なしに私たち同士の平和もなく」、「私たち同士の平和がない神との平和はあり得ない」のです。この両方の視点を持たせていただきましょう。 しかし、私たちは「その完全な平和」の途上にあります。なぜなら、私たちは「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し」(21節)ていくためです。それゆえ、いまだ存在する敵意に対して、私たちは悩み、葛藤するでしょう。しかし、そのようなときに、キリストが平和をつくりだした道を思い起こしたいのです。十字架は苦しみの道ですが、平和をつくりだす「勝利の道」です。そうであるならば、私たちが人と人との間にある敵意で苦しむことは、決して無駄なことではありません。私たちには敵意を負う力はありませんが、すでに十字架においてすべての苦しみを負ってくださったキリストが、「要の石」としてともにいてくださるのです。

 私たち教会が、キリストこそ私たちの平和であることを覚えつつ、平和をつくりだす使命に生かされてまいりましょう。