金言
「そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ人への手紙3:19)

説教題 「神の満ちあふれる豊かさ」
聖 書 エペソ人への手紙3章14~21節
説教者 栗本高仁師

 この手紙は前半(1〜3章)と後半(4〜6章)に綺麗に分けられます。前半の本文を、祈りで始めたパウロは、終わりも祈りで閉じます。彼は「神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」(19節)と祈るのです。それは具体的にどういうことでしょうか。

1)栄光の豊かさにしたがって強められる

 それは「力をもって強められること」です。初めの祈り(1:15〜23)では「神の大能の力を知ることができるように」と彼は祈りました。ここでは、実際にその「力をもってあなたがたを強めてくださいますように」(16節)と祈るのです。しかも、その力の程度は普通ではありません。全ての源である父なる神様(15節)が持っておられる「栄光の豊かさにしたがって」(16節)です。神の栄光を私たちはまだ見ることはできませんが、やがて来るべき時に「神の栄光が都を照らす」(黙示録21:23)とあります。その輝きは、「太陽も月も必要としない」ほどなのです。それほどまでの豊かな栄光によって、私たちは強められていくのです。まさに、それは「神の満ちあふれる豊かさに満たされる」ことに他なりません。

 私たちは、遠慮深くなりがちですが、「神の栄光の豊かさにしたがって私たちを強めてください」と大胆に祈るように招かれているのではないでしょうか。しかし、忘れてはならないことは、それが「御霊(神の霊)により」(16節)なされる「神の業」であるということです。どこまでいっても、私たち人間の手の業にはよらないのです。

2)人知を超えたキリストの愛を知る

 「力をもって強められること」は、この世的な「力によって他者より上に立ち、強くなっていく」という意味ではありません。むしろ、「愛に根ざし、愛に基礎を置く」(17節)ということです。「力」と「愛」は一見矛盾しそうに思われるかもしれませんが、実は密接なのです。そのため、パウロは「キリストの愛を知ることができますように」(19節)と祈ります。しかも、そのキリストの愛は、「人知をはるかに超えたもの」(19節)であり、「広く、長く、高く、深いもの」(18節)なのです。つまり、私たちが本当に神の力で強められていく時、そのような満ちあふれる愛で満たされていきます。本来「憎しみ、妬み、恨み」しか出てこないような私たちの心に、キリストの愛がとめどなく流れてくるのです。まさに、「神の満ちあふれる豊かさに満たされる」のです。

 だからこそ、パウロは「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」(17節)と祈り続けます。すでに私たち教会は「キリストをかしらとするキリストのからだ」であり、「キリストを要の石とする建物」であるにもかかわらず、このように祈るのです。どうしてでしょうか。それは、私たちが完成に向かう途上にあるためです。どうぞ、私たちも生涯をかけて、私たちの全領域にキリストをお迎えし続け、人知はるかに超えたキリストの愛を知り続けていきましょう。

3)教会を通して、神に栄光が!

 「力」と「愛」という「神の満ちあふれる豊かさ」にまで、私たち教会が「満たされていく」とき、何が起こるでしょうか。地上の教会を通して、神の栄光が「世々限りなく、とこしえまでも」、現されていくのです(21節)。聖書の神様こそが、「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」(20節)であると世界の人々が認めるようになっていくのです。私たち教会は、この地上にあって、天におられる「神の満ちあふれる豊かさ」を写しだす鏡なのです。そのような素晴らしい使命をいただいていることを覚えさせていただきましょう。

 ここまで、エペソ人への手紙の前半部を見てきました。ここに「神の教会とは何か」が語られている、と一番最初に申し上げました。ある人は「教会は神の恵みの最高傑作」と表現しましたが、まさに、教会は「神の満ちあふれる豊かな恵み」に満たされ続けて、その恵みを分かち合っていく存在と言えるのではないでしょうか。私たちもそのような教会として、この時代に、この地に立てられていることを覚えさせていただきましょう。