金言
「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35後半)

説教題 「受けることと与えること」
聖 書 使徒の働き20章32節~35節
説教者 井上賛子師

 使徒の働き 20:17-38 は、エペソ教会の長老たちへのパウロの告別説教として有名な箇所である。3年間、エペソの伝道に励んできたパウロがエルサレムへ出発しようとしている。19節のパウロの言葉は心を打つものである。そして、今日共に「受けるよりも与えるほうが幸いである」という御言葉をみていこう。単純に考えれば、受けることは、貧しく弱い状況であり、与えることは、人に与える分まで持っていて豊かということ。豊かな人が与えなさいという勧めなのか。パウロが具体的にしてきたことを見てみよう。

1. こだわりのない信仰

 パウロは33~34節で、自分は人から受けることをしなかっただけでなく、共にいる人々のためにも働いて与えたと言っている。「使徒の働き」に、初代教会では人々が自分の持っているものを神に献げ、それを必要としている兄弟姉妹に分け与え、共同体の中で支え合っていたことが記されている。またパウロが心がけていたことは、信仰が弱い人への配慮であった。パウロは、伝道者がその報酬を受けても良いと考えていたが、教会の中にはそのことにつまずく人がいた。もともと律法学者は、技術を身に着け、自ら稼いで生活していた。律法学者であったパウロも、テント造りの技術を身に着けていた。教会の人々が献金を献げ、パウロは献金によって伝道に専念できるなら、喜んで援助を受けるし、また、援助を受けることでつまずく人がいるならば、パウロはその人の信仰のために、自分で仕事をし、生活することを選んだのである。第1コリント8章でも「偶像に献げた肉を食べること」でつまずいてしまう人たちのために自分は食べないと言っている。「弱い人たちには、弱い人になりました」(1コリ9:22)。こだわらないのである。「固守すべき事とは思わ」なかった。社会的な弱者のために苦労を厭わず働く。教会の援助を受ける、受けないということより、何が伝道するために最善であるかを考え、「謙遜の限りを尽くして」教会と教会の人たちへ仕えてきたのである。
 それならば、「与える方が幸い」というのは、自分が何かを失ってでも、その人が福音に与るために、与えていくということであろう。なぜパウロはこのように与えることが出来るのだろうか。

2. 私たちはまず愛を、恵みを受けた者

 神様は、御子イエス様を、私たちに無償で与えてくださった。無償の愛である。イエス様は、神の独り子として誉れと栄光を捨て、一人の人間としてこの世に生まれてくださった。そして、自らの命を与え尽くして、身代わりに十字架で死んでくださった。イエス様の生き方は、「与える」という一語に表されている。(ピリピ2:6~8)。神様が、まず私たちに、恵みを与えてくださった。パウロも最初はまずキリストから受ける者であった。私たちは、まず与えられている。「愛ということを知った」1ヨハネ3:16。

3.与える幸い、喜び

 イエス様と出会ったパウロは、自分の誉れや誇りを、すべてを捨てて、謙遜の限りを尽くし、与える人となった。パウロが、「与える」ことの幸いに、生きることができたのは、初めに、神様から、恵みを受けたからである。
 「幸い」という言葉は、幸い、恵み(blessed)であり、「ほんとうの喜び」であると表現できる。幸福感、充実感、あるいは深い喜びであり、真の報酬である。アッシジの聖フランシスの「我々は与えることにおいてこそ受け取ることができる」という言葉が残されているが、言い換えるならば「私たちは与えることにおいてこそ『本当のよろこびを』受け取ることができる」と言えよう。