金言
「しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」(申命記7:8)
説教題 「主があなたがたを愛されたから」
聖 書 申命記7:1~11
説教者 矢島志朗勧士
イスラエルの民は、出エジプトの後に神様から律法を受けて後、シナイ半島をさまよった。神様のみこころにかなわない不信仰、不従順な態度や行いもあった。その結果、エジプトを出た時の第一世代は約束の地には入れなかった。
申命記はその後の第二世代、つまり律法が民に与えられた際には子どもであったか生まれていなかった世代に向けて語られたものである。彼らは民の歴史を第一世代ほどはよく知らなかった。「申命記」という書名には、「御教えの書き写し」という意味がある。第二世代が約束の地に入る前にもう一度律法を教え、新しい生活に備えるために、指導者モーセが民に語ったものである。大きく分けて「思い起こす」(1-4章)、「上を見上げる」(5-26章)、「気をつける」(27-34章)という三つの主題について、申命記には記されている。今朝は特にこの書から、神様の愛について教えられたい。
1.主が愛されたから
1~6節で、異邦の民と結婚してはならず、彼らを聖絶しなければならないと語られる。これは、神の民としての純潔を保つためであった。イスラエルが「主の聖なる民」「宝の民」だからであると語られる。
7節で「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。」「事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。」と語られる。外見的な立派さ、勢力の大きさは関係がなかった。神様がイスラエルの民を選んだのは、「主があなたがたがを愛されたから」(8)とある。この「愛」は「恩恵からのみ来る愛」であり、「全く一方的な愛」である。
全く一方的な愛によって神様は民を導き出し、奴隷の家から贖い出された。民はこのことを繰り返し思い出す必要があった。
人間は罪の奴隷状態から救われたと聖書は語る(ヨハネ8:34、ロマ6;6)。罪の奴隷状態にあった者が、神様の一方的な愛によって救われたのである。何かができるから、何かが優れているからではなく、一方的に選ばれて救われたという恵みを、私達は深く味わいたい。
2.信頼すべき神
神様はまた、信頼すべき方(誠実な方)でもある。主を愛し、命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる(9)。一方で、主を憎む者には報い、滅びがある。聖さへの厳しい基準があり、罪は裁かれねばならないという厳粛な面がある。神様は約束を永遠に守る、信頼すべき方である。
しかし同時に、その愛は一方的なのである。キリストの十字架と復活によってその愛はあらわされた。キリストが罪の罰、のろいを受けて、よみがえってくださった。それによって罪の赦しが与えられて、私たちが命に生きる道が備えられた。この道備えも、私たちが何かをしたからではなく、一方的な愛によって行われたのである。
3.命令を守りなさい
神様は、命令を守るようにと語られる(11)。それは人間が本来の命に輝いて生きるためのものである。神様がこのように命じる時は、「神を神として認める」ことと合わせて語られる(申命記6:4,5、レビ19:18)。
私たちは「がんばり」によって主の命令を守るのではなく、神様の愛をしみじみと教えていただき、浸りながら行っていくのある。私達は失敗をしてしまう。しかし、神様の方から離れることはない。私たちを一方的に愛してくださっていて、「生きなさい」という語りかけが今日もあるということを覚えたい。全世界を支配され、救いの完成へと日々、私達を導いてくださっている。この方に希望を持ちながら、一つ一つのわざをなしていくのである。
私たちを愛してくださり、誠実で信頼すべき神様。私たちに真実を尽くしてくださり、「私の戒めを守り、生きなさい。」と語ってくださる神様のみ声を聞きつつ、この週も歩ませていただきい。