金言
「そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を『あなたはエル・ロイ』と呼んだ。彼女は、『私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは』と言ったのである。」(創世記16:13)

説教題 「私を見てくださる神」
聖 書 創世記16:1~16
説教者 井上賛子師

 アブラムは故郷カルデアのウルを旅立ち、神から祝福の約束が与えられカナンの地へ導かれる。神の約束とは12章1~3節である。彼はこの約束を受けて旅立った。この約束は何度も繰り返し与えられる。アブラムは子供が与えられることを待ち望んでいた。

1. アブラムとサライの失敗

 彼らがカナンの地に住んでから十年が過ぎている(3節)。アブラムは85歳、サライも75歳(17:17、10歳違い)になっていた。十年間、待ち続けても子供は生まれない。ついにサライは、神の約束を待ち切れずに行動を起こす。アブラムに自分の若い奴隷ハガルを与えて、子どもを得ようとした。アブラムも了承し、サライの思惑通りにハガルは身ごもった。ハガルはエジプトから遠く離れたカナンの地に連れて来られた奴隷で、最も弱い立場にいる人間であった。一介の奴隷に過ぎなかったハガルが、主人の側女となりアブラムの子を身ごもった。身ごもったハガルは「自分の女主人を軽くみるようになった。」(4節)。ハガルは次第に女主人に対して、倣慢な態度を取るようになったのである。サライの思い通りに事は進まなかった。二人の間で争いが起こる。馬鹿にされていると腹を立てたサライは、「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたのせいです(脚注)」(5節)と、夫アブラムを責め立てた。それに対しアブラムは、「あなたの好きなようにしなさい。」(6節)と答える。そしてサライによるいじめが始まり、耐え切れずハガルは逃げ出してしまう。
 このような悲惨なことに至ったのは、アブラムとサライが奴隷ハガルによって子どもを得ようとしたためである。良かれと思ってしたことが、ハガルの高慢、サライの嫉妬、サライとハガルの争い、アブラムの無責任、ハガルへのいじめ、ハガルの命の危機をもたらした。

2. 荒野にある泉のほとりにて

 身重の体で荒野をさすらうハガルに、神の使いは泉のほとりで声をかけた。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(8節)。ここで初めてハガルは名前で呼ばれる。ハガルは「私の女主人サライのもとから逃げているのです」。そんなハガルに、神の使いは二つのことを語られた。一つは「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(9節)。二つ目は、子孫の繁栄(10節)と、「見よ、あなたは身ごもって男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。」(11節)であった。神は主人アブラム夫婦と同じように、奴隷ハガルにも祝福を約束される。

3. 私を見てくださる神

 ハガルは自分に語ってくださった神と出会う。ハガルはこの神を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。異邦人である女奴隷ハガルの「あなたこそ私を顧みられる神」という信仰告白である。彼女の苦しみを聞いておられる神を、いつも彼女を見ていてくださる神を、ハガルは知ったのである。この神との出会いによって彼女は、女主人のもとに帰り、もう一度忍耐して、やり直す力を与えられた。彼女の帰る場所、立場は以前と変わらない。私たちが神を信じれば、置かれている現実や苦しみが、急に好転するというものではない。
この物語が私たちの心を打つのは、誰の目にもとめられなかった、異邦人の奴隷に過ぎないハガルに、神が声をかけてくださったということである。神がハガルを見続けていてくださったということである。
 私たちが見つめるべきお方は、「エル・ロイ」の神である。自分を見て傲慢になり人を見下すのではなく、人を見てうらやむのでもなく、しっかり神を見つめていこう。神はいつも見ていてくださる、顧みてくださっていることを覚えて、置かれている現実と向き合っていこう。