金言
「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(コリント人への手紙第二4:16)

説教題 「日々新しくされる」
聖 書 コリントへの手紙 第二4章16~18節
説教者 栗本高仁師

 敬老祝福礼拝を迎えました。心からの感謝と祝福を祈ります。ある人は「生きるとは、老いることだ」と言いました。確かに私たちは生きている限り、老いを重ねていきます。しかし、それは単純に「後退する」ということなのでしょうか。聖書は何と語るでしょうか。

1)私たちは衰えても落胆しない

 私たちは老いとともに、肉体の衰えを感じます。その時、私たちは「落胆」してしまうのではないでしょうか。しかし、聖書は「私たちは落胆しません」(16節)と言います。この手紙を書いたパウロという人は「現実」が見えていなかったのでしょうか。それとも、若すぎて肉体の衰えを経験したことがなかったのでしょうか。どちらも違います。彼は、現実として迫害があることを語りましたし、それゆえに肉体の苦痛を経験していました。だからこそ、「たとえ私たちの外なる人(肉体)は衰えても」(16節)と言います。さらに、私たち自身は「土の器」(7節)であるとも語ります。私たちのからだは衰えるだけでなく、やがて塵へと還る「死すべき肉体」なのです。そのような現実を認めた上で、しかしなおも「私たちは落胆しません」と言い得ることができるのです。

2)内なる人は日々新しくなるため

 それでは、なぜ私たちは落胆しないのでしょうか。それは、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされてい」るためです(16節)。まるで、私たちの内には何か、全く質の異なるものがあるような印象を受けますが、それは何でしょうか。
 「内」であるということは、「精神・魂」を指しているように思えますが、そうではありません。この箇所の文脈を見ると、「内なる人」とは、「イエスのいのち」(10,11節)であることがわかります。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」(5:17)とあるように、私たちがイエス・キリストを信じるとき、私たちの内に「イエス様ご自身」が住んでくださり、全く「新しく造られた者」となるのです。それは、壊れやすい「土の器(外なる人)」の中に、「宝(内なる人)」が入っているようなものです(7節)。それほどに全く別物なのです。また、「外なる人」を外から水を足さなければいけない「池」とするならば、「内なる人」は内から湧き出る「泉」です。私たちの内から、水のごとく「イエスのいのち」が湧き出で、私たちは「日々新しくされる」のです。ですから、私たちは落胆しません。

3)復活の希望のゆえに

 しかし、たとえ「内なる人が日々新しくされた」としても、「死に至る」ことは避けられないと思うかもしれません。しかし、「イエスのいのち」を持つ私たちには希望があるのです。なぜなら、イエスは十字架で死なれ、三日目によみがえられたためです。それを成し遂げられた方は、イエス様だけなのです。そのイエス様のいのちをいただいた「私たちをも…よみがえらせ」てくださいます(14節)。この復活の希望こそが、「一時の軽い苦難とは比べものにならないほど重い永遠の栄光」なのです(17節)。もちろん、私たちの苦難は、決して軽いものではありません。しかし、それは私たちのこの肉体の人生と同じように「一時」なのです。苦難は終わり、その先に「永遠のいのち」が待っているのです。確かに、それはまだ「目に見えない」者でありますが、「目に見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」がゆえに、私たちはこの「目に見えないものに目を留めて」いきましょう。

 私たちの肉体は「老い」を重ね、衰えていきます。まずは、その限界を認めさせていただきましょう。しかし、死に打ち勝たれた「イエス」のいのちを私たちはいただくことができるのです。そのことのゆえに、「日々新しくされ」、「永遠のいのち」の希望があることを覚えさせていただきましょう。