金言
「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マルコの福音書26:28)

説教題 「イエス様のいのちをいただく」
聖 書 マルコの福音書26章26~30節
説教者 栗本高仁師

 世界聖餐日を迎えました。聖餐式の起源は、やはりイエス様の最後の晩餐での出来事です。そこから、聖餐が私たちにとって何の意味があるのかを見てまいりましょう。

1)イエスこそが過越のいけにえ!?

 まず私たちが覚えなければいけないことは、この場面が「過越の食事の席」であったということです(26:17)。過越の祭りとは、出エジプトを記念して毎年祝われたユダヤの祝祭です。神様がエジプトに対してなされた十の災いの最後において、イスラエルの民は、「傷のない雄の子羊」の犠牲により、災いを「過ぎ越して」いただいたのです。その時から、彼らはこの祭りにおいて、同じように犠牲を献げ、神がイスラエルの民を救い出してくださったことを思い起こしていました。
 まさにその場面でイエス様は、パンをとり「これはわたしのからだです」と言い(26節)、杯を取り「これはわたしの契約の血です」と言われました(28節)。つまり、イエス様ご自身が「過越の犠牲」となられたのです。これは、ユダヤ人が考えていた「メシア」の働きではありませんでした。神が圧倒的な力を持ってエジプトから導き出しのと同じように、「メシア」もローマから救い出してくれると、彼らは信じていました。ここに驚きがあります。何と、神の子である「メシア」自身が「犠牲」となってくださったのです。ここに大きな愛が表されています。私たちも驚きを持って、聖餐の恵みにあずかりましょう。

2)イエス様による新しい契約

 ではなぜ、イエス様ご自身が「過越のいけにえ」にならなければならなかったのでしょうか。そのことを知るヒントが、「これは…わたしの契約の血です」というイエス様の言葉にあります。ルカでは「この杯は…わたしの血による、新しい契約です」(22:20)となっています。神様は、イスラエルの民をエジプトから導き出した後、彼らと契約を結ばれました。その契約の締結の際に用いられたのが「動物の犠牲の血」です。つまり、「血」は契約のしるしとして使われていたのです。しかし、イスラエルの民はこの契約を守ることができず、再び諸外国に捕囚され、実はそれ以来外国に支配され続けていたのです。ですが、彼らには希望がありました。それは預言者エレミヤを通してなされた「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、…新しい契約を結ぶ」(エレミヤ31:31)という神の約束です。イエス様は、十字架で流された血によって、この新しい契約を結んでくださったのです。そこには素晴らしい新しさがあります。それは、「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」(エレミヤ31:34)に表される「完全な罪の赦し」です。だからこそ、イエス様でなければならなかったのです。私たちは、主の聖餐にあずかるたびに「悔い改め」をしますが、それは罪責感に苛まれるためではなく、この罪の赦しを確認するためなのです。

3)イエスのいのちをいただき、天国の前味をあじわう聖餐式

 さらに、イエス様は、この地上で過越の食事に一緒に与ることはもうないと仰せられました(29節)。それは、もはや過越が必要ないためです。イエスの十字架の御業で犠牲は完成したのです。ではなぜ私たちは聖餐式を持つのでしょうか。それは、忘れやすい私たちに対する恵みの手段です。イスラエルの民が、過越の祭りを通して神の働きをずっと思い起こしたように、私たちも目に見える「聖餐式」を通して、再びイエス様が来られる時まで、十字架の恵みを味わい続けるのです。このようにして、神様は、目に見える手段によって、私たちの信仰を呼び起こしてくださるのです。
 しかし、聖餐式は単に思い起こすというだけのものではありません。イエス様は「父の御国であなたがたと新しく飲む」と仰いました。これは、天国における宴会です。実は、私たちは聖餐式を通して、すでにこの前味を味わっているのです。聖餐式は、キリストを信じて救われた私たちがともに喜ぶ交わりなのです。どうぞ、来週の聖餐式において、ともに喜ぶ一時とさせていただきましょう。