金言
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

説教題 「私たちの目指すもの」
聖 書 ピリピ3:12~16
説教者 井上義実牧師

 私たちの信仰の姿勢をパウロが語る。イエス様によって私たちは捕らえられている者である。私たちがイエス様を捕らえようとするのではない。イエス様を捕らえられない、つかめない、手放してしまう、失ってしまうとはならない。捕えられていることは安心、安全なのである。

1)過去からの自由

 私たちはどんな過去であっても、過去の上に今の自分がある。過去のことを感謝し、その上に立っていることを認めることは大切であり、健全なことである。難しいのは、過去にマイナスの、消極的なイメージを持つ。あんなことがあった、こんなことを受けたと繰り言のように思い出す。逆に、あの頃は良かった、昔は良かったと美化されたイメージを持ちもする。Cf.どちらの人も多いのではないか。そこから抜け出すのは難しい。… 過去が良くなかった、過去が良かった、どちらも過去に囚われてしまっていることでは同じである。そのことは、私たちを後ろ向きにしてしまい、前に進むことを妨げる。恵みを数え、感謝することは大切であるが、同時に聖書は「うしろのものを忘れ」と言う。過去に囚われやすいことへの警告である。自分が行った、語った、犯してしまった罪はイエス様の十字架によって赦される。人から受けた傷、人に与えてしまった傷、そのようなしみ、汚れはイエス様の血潮によってきよめられる。このことを確かな事として、しっかりと受け取り、信じる。そこから少しずつであっても自由にされて行く。私たちは前に向かって、どう生きていくのかを聖書は語り、勧めている。

2)現在にある力

 ここにおいて語られているのは、何よりも、与えられている今を生きることの大切さである。パウロは、私たち信仰者の歩みを、前のものに向かってひたすら体を伸ばして走って行く、アスリートに例える。アスリートは普段から節制し、訓練して競技のために最高のもの引き出そうとしている。実際の競技になると、邪魔になる余分なものは何も持たない。マラソンや駅伝の多くは真冬であるが、上半身はシャツ1枚、下半身は短いパンツ1枚となる。賞を得るという栄誉のためである。ギリシャの古代オリンピックで優勝者に与えられたのは、月桂樹の冠ではなくオリーブの冠一つであった。多額の優勝賞金、多くの副賞が付くのではない。勝利しましたという栄誉だけがそこで与えられる。私たちの信仰の戦い、歩みもそうである。冠という言葉は普通名詞「ステファノス」、これが固有名詞・人名になると「ステパノ」である。ステパノはイエス様を証しした、ユダヤ人たちの罪を指摘したが故に、石打で殺された。初代教会最初の殉教者となったステパノは、冠という名前であったということを知った時、胸に熱いものがあった。名は体を表す、名は実を表すということである。冠ということでは、ヤコブ1:12「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」、これは言葉通りです。この世の戦いに忍耐をもって歩み通す。ペテロⅠ5:4「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」、主を信じる者たちの群れで模範として歩む者への約束である。

3)未来への目標

 パウロの絶筆となった手紙はテモテ第二と言われるが、同書の4:7・8「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」と記している。私たちは地上にあって、天の御国のゴールを目指していく。やがて、私たちは永遠の輝きの中に導き入れられる。

 この後にはイエス様の再臨(20節)、信じる者の栄化(21節)が語られている。救いの完成の中で、永遠に生かされていく者となることを聖書は語っている。栄化について語る聖書の箇所はいくつもあるが、コリント第二3:18「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」を挙げる。以前、奉仕した教会で、軽い障害を持たれた姉妹がおられた。この御言を一生懸命、暗唱しておられた。栄光から栄光へとはどういう意味か尋ねられた。やがて主の再臨の時には、私たちの卑しい身体をも、神様は栄光に変えていってくださる。神様に相応しい姿に変えて行ってくださることを話した。姉妹は不自由な思い、悔しい思いを持つことは多かっただろう。主の栄光に変えられる時に、全てから解き放たれることは何と大きな、公平な恵みだろうかと思う。

 それは、私たちの知識や考えで理解できない、想像を超えている。私たちの神様は私たちの頭や心の中で収まることのできな、はるかに越えた、次元の違う大いなる御方である。私たちへの神様の愛も大いなるものである。私たちは一切を神様にお任せすることが出来る。神様の栄冠を待ち望みながら、今日も私たちは精一杯に体を前に伸ばしながら、私たちのなすべき働きを果たしていこう。主の助けも、導きも常にある。30年を迎える船橋栄光教会を導き続けてくださった神様は、これからもこの教会を守り祝福し、つながっておられるお一人一人に恵みを表し続けてくださる。新しい方たちを救いに導き、この地域に神様の業を進めてくださる。