金言
「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ人への手紙3:20)

説教題 「地で生きながら、天の希望をいだく」
聖 書 ピリピ人への手紙3章17~21節
説教者 栗本高仁師

 本日は召天者記念礼拝です。私たちにとって家族の死は悲しいものですが、聖書は「私たちが再会できる」という希望を語ります。

1)私たちの希望とは〜復活の希望

 なぜそのような希望があるのでしょうか。それは「私たちの国籍は天にある」ためです(20節)。もちろん、私たちは日本という国に生きるものです。しかし、私たちは天の国の市民である、と言うのです。それゆえに、特別な権利(市民権)が与えられています。
 それでは、天における特別な権利(市民権)とは何でしょうか。それは、やがて「復活する」という希望です。私たち全ての人間は、やがて死を迎えます。私たちの肉体は「朽ち果ててしまう」ものだからです。しかし、何とそのような「私たちの卑しいからだ」が、「栄光に輝くからだ」に変えられるのです(21節)。このからだは、決して「朽ちることがありません」。それゆえに、私たちの人生は一度経験する死では終わらないのです。「栄光に輝くからだ」に復活して、もう一度先に天に送った方々とお会いすることができるのです。この召天者記念礼拝において、私たちはこの天の希望をいだかせていただきましょう。

2)天に国籍をもたない人〜欲望を神とする者

 それでは、全ての人が「天に国籍をもつ」のでしょうか。実はそうではありません。天のことは考えずに、「地上のことだけを考える人たち」(19節)も存在します。彼らはどのような人物かというと、「欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として」いるとあります(19節)。私たちは普通に生きているだけで、様々な欲望が出てきます。その中には、大切な良い欲望もあります。しかし、私たちの内には多くの悪い欲望が自然と生まれます。地上のことだけを考える人たちは、この地上でこのいのちが続く限り、自分の望むところをひたすら追い求めるというのです。私たちの周りにも、「キリスト教を信じて窮屈になるより、この地上でもっと楽しく生きたい」という声があるかもしれません。しかし、聖書は明確に「その人たちの最後は滅びです」と言います(19節)。多くの誘惑の声がある中で、私たちは「欲望の道を突き進むときどうなるか」ということをよく考えてみたいのです。それは、今のこの世界の破れを見るときによくわかるのではないでしょうか。

3)天に国籍をもつ人〜救い主イエス・キリストを信じる者

 それでは、どのような人々が「天に国籍をもつ」のでしょうか。当時、外国の人がローマ帝国の市民になるためには、多額のお金が必要であったそうです(参考;使徒22:28)。天の市民権を得るために、多額のお金が必要でしょうか。はたまた、多くの善行を積まなければいけないでしょうか。聖書は決してそのようには語りません。ただ、「主イエス・キリストを救い主として信じる」ときに、この市民権が与えられるのです(20節)。
 なぜイエス・キリストなのでしょうか。それは、イエス・キリストこそが、天への道を切り拓いてくださった方であるためです。イエス・キリストというお方は、神でありながら、私たちと同じ肉体を持つ人となり、私たちと同じように死を経験してくださいました(十字架で)。しかし、そこで終わられることなく三日目に「よみがえって」くださったのです。歴史上で「死に打ち勝った人」は、この方以外にはいないのです。私たちがこのイエス様を信じるとき、「天に国籍をもつ」ものとされ、「私たちも復活する」という約束が保証されるのです。

 この天の希望をいだく道は、「全ての人に」、また「いつでも」開かれています。神様は、この復活のいのちに生きてほしいとあなたを招いておられます。あなたはその招きにどのように応答するでしょうか。