金言
「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(Ⅱコリント4:7)

説教題 「この宝を受けて」
聖 書 Ⅱコリント4::7~18
説教者 矢島志朗勧士
 
 パウロが1年半にわたり、腰を据えて伝道をして建て上げられたコリントの教会には、多くの問題があった。パウロは複数の手紙のやりとりや訪問を経て、この第二の手紙を書いた。手紙のテーマの一つは、パウロ自身の使徒としての務めについてである。彼は、主の御霊がおられるところには自由があり、御霊によってこそ私たちは変えられていくことを述べつつ、自身がどのような姿勢でみことばを語っているかを述べていく。

1.土の器に与えられた宝

 7節の「この宝」は、6節からの流れで言えば「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」である。この言葉は「福音のきよい光」とも訳される。また「この宝」は、「福音の光」(4)とも、「福音そのもの」であるとも言える。一方で「土の器」、それは弱く脆い器である。この土の器の中に、測り知れない力(非常に大きな力、限界を超えた力)が働くと語られる。
 信仰者としての歩みの中で、私たちはしばしば、自分が脆く、弱い者であることを痛感させられる。そして一方で、こんな自分を主が愛し赦し、生かしてくださっているという恵みも知り続けるのである。
 パウロは幾多の苦しみを通ってきたことを告白しつつ、行き詰まることはない、見捨てられることも、倒れることも、滅びることもないと告白する。彼は「私には負債がある」「生きることはキリスト」「もしキリストを伝えなければ、私わざわいだ」との思いを告白し、宣教につき進んだ。彼はそのような歩みの様を「イエスの死を身に帯びている」「イエスのために絶えず死に渡されている」と語り、それは「イエスのいのちが私たちの身に現れるため」(10)、「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるため」(11)と語る。この告白から、7節の「この宝」は「イエスのいのち」であるとも言うことができる。
 「私は信じています。それゆえに語ります」(13)と引用されるのは、詩篇116篇10節のみことばで、この告白もまた、死の恐怖と苦しみの中で語られている言葉である。パウロの歩みは、自分に与えられた信仰のとおりに語り、生きた歩みであった。よみがえりの希望のもとに福音を語る日々を送った、その中でキリストが自分を通してあらわれること、神の栄光があらわされることに一番の価値を置いたのである。そして、宣教は前進し続けたのであった。
 一人一人が使命に生きる時に、喜びも苦難もあり、また自分の弱さ、脆さを思い知ることも多くある。しかしそのただ中で働く測り知れない神の力、キリストのいのちに気づき、味わう歩みを重ねていきたい。

2.見えないものに目を注いで

 16節の「落胆しない」には、「疲れ果てない」「ギブアップしない」という意味がある。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされてゆく。ここで言う「外なる人の衰え」は、単に「加齢」とか「老化」のことを言っているのみでなく、「死」というものがより現実にせまってくるという厳粛さを覚える。外なる人が衰えて地上の人生の終わりに向かってゆく、その中で内なる人は日々新たにされてゆく。「日々」という言葉には「だんだんと」というニュアンスがある。私たちは一気にではなく、「だんだんと」新たにされるのである。ここにも慰めと希望がある。
 17節で、一時の軽い患難が私たちに、それと比べものにならないほどの重い永遠の栄光をもたらすと語られる。「それと比べものにならないほどの」には7節の「測り知れない」と同じ意味があり、「本当に測り知れない」「並はずれた」という強い意味が込められている。本当に測り知れない、重い永遠の栄光が私たちにもたらされるのである。
 見えないもの、それは永遠の栄光であり、究極のゴール、神様の救いのご計画の完成とも言える。私たちはそこに目を留めて歩むのである。神様が示してくださっている終わりを見据えながら、今を生きるのである。
 福音の力、イエスのいのちを共に味わい、見えないものに目を注ぐ生き方を、共に祈りつつさせていただきたい。