金言
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9:7)

説教題 「神の熱情によって」
聖 書 イザヤ書8章19節~9章7節
説教者 栗本高仁師

 待降節(アドベント)を迎えました。今年も私たちの救い主なるイエス・キリストの御降誕をお祝いするクリスマスに向かって、備えてまいりましょう。
 今日開かれた箇所に書かれていることは、このイエス・キリストの誕生は、突然の出来事ではなく、神様の深いご計画の内にあったということです。その根底にあったのは、何としてでも私たちを救いたいという「神の熱情」です(7節)。

1)ねたみの神

 この「神の熱情」は、主ご自身の自己紹介でも表されています。出エジプトをした民に授けた十戒の中で、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神」(出エジプト20:5)と仰られます。「ねたみ」と聞くと、私たちは悪い印象を受けてしまいます。しかし、これは他でもない「神の熱情」の表れです。私たちを造られた神様は、私たちを愛するがゆえに、ほかの神々との関係を許されなかったのです(出エジプト20:3)。
 しかし、この預言がなされたとき、イスラエルの民はまさに「主なる神以外のもの(霊媒、ささやき、うめく口寄せ;異教の風習)」を頼りにしていました(19節)。それゆえに、神のねたみ、そして神の怒りの御手が、イスラエルの民に伸されたのです(イザヤ9:12, 17, 21, 10:4)。そして、彼らはアッシリアの圧政により、暗闇の中を歩むことになってしまうのです(21-22節)。しかし、この神の怒りは、彼らをもう一度神様との愛の交わりの中に立ち返らせるためのものでした。神様は、私たちが神様から離れてしまう時、きちんと警告を発してくださり、もう一度「帰ってくるように」と私たちを招き続けてくださいます。

2)闇から光へ

 しかし、「神の熱情」のゆえに、神様はイスラエルの民がそのまま暗闇の中にいることを放っておかれません。その苦しみがあったところに、闇がなくなり、何と彼らの上に光が輝き、彼らは大きな光を見る、と予告されるのです(1-2節)。そこには、刈り入れ時のような、戦利品を分け合う時のような、喜びが増し加えられます(3節)。しかも、それは「主の御前での喜び」です。つまり、神様との愛の交わりが回復するのです。それは、彼らの熱心さゆえではなく、あくまでも神の熱心さゆえであり、主ご自身がなしてくださった業なのです(4節)。
 まさにクリスマスは、神が私たちを闇から光へと救い出してくださるために、主ご自身が御業をなしてくださったことをお喜びする日ではないでしょうか。そこに、神の熱情が貫かれているのです。

3)あきらめない神

 神様は光をもたらすために、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」と預言されます。また、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる(6節)と。この名にふさわしい方は、イエス・キリスト以外にはおられません。まさにここに書かれている通り、イエス様は「ひとりの赤子」としてお生まれくださり、異邦の民ガリラヤの地で宣教をなさいました(マタイ4:12-16)。
 しかし、この預言がなされてからイエス様がダビデ家の家系からお生まれくださるまでに、実に700年がかかっています。神様はその間何もされなかったのではなく、何度も預言者を送り、正しい王が立てられて、民が主に立ち返ることを待っておられました(マタイ23:37)。そして、部分的にこのような公正と正義を行う王も誕生しました(ヒゼキヤ王;イザヤ37:32)。しかし、そのような王が続くことはなかったのです。つまり、イスラエルにとっては忘れ去られたかのような預言となっていたのです。しかし、神は諦められることなく、この救いを成し遂げるために、「ひとり子をお与えになられたのです」(6節、ヨハネ3:16)。ここに「万軍の主の熱心」があるのです。

 この「神の熱情によって」今私たちがあるということをもう一度思い起こし、このアドベントの時期を過ごさせていただきましょう。