金言
「それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」(マタイの福音書1:23)

説教題 「ヨセフに対する御告げ」
聖 書 マタイの福音書1章18~25節
説教者 栗本高仁師

 クリスマスは私たちにとって喜びの時ですが、イエス様のご降誕は普通の出来事ではありませんでした。そこには、様々な驚きと困惑、苦悩があったのです。マリアの夫である「ヨセフ」もその例外ではありませんでした。

1)ヨセフの葛藤

 ヨセフはイエスの母マリアと婚約していました。ユダヤの法律において、婚約はすでに夫婦とみなされましたが、結婚前の性的関係は許されませんでした。ところが、何と驚くべきことに「二人がまだ一緒にならないうちに(結婚して夫婦生活を送っていないのに)、…(マリアが)身ごもっていることが分か」りました(18節)。この時、ヨセフの気持ちはどのようなものであったでしょうか。マリアにも御告げがあったことを彼が聞いていたかどうかは分かりませんが、大変心を悩ませたでしょう。
 その結果、彼は一つの決断を出します(19節)。まず、「ヨセフは正しい人」であったため、律法(ユダヤに法律)に反してこのまま結婚するという選択肢はありませんでした。しかし、同時に彼は彼女を大切に思っていました。そのため、「マリアをさらし者にしたくなかったので」、公の場で彼女を裁くのではなく「ひそかに離縁しようと」決めます。彼は正しさと愛のはざまで大きな葛藤を覚えていたのです。神様が大きく働かれる時、私たちもこのような葛藤を覚えることがあるのではないでしょうか。しかし、それは大きな神の業がなされようとしているからこそ生じるものなのかもしれません。

2)主が私たちに現れ、語りかける

 ヨセフが、このようなことを思い巡らしていたとき、何と「主の使いが夢に現れ」ます(20節)。ヨセフはただ自分一人で悩んでいると考えたかもしれません。しかし、神様は彼の思いと決断をよくご存知だったのです。神様も私たち一人ひとりの葛藤を覚えておられるのです。
 そして、神様は彼に介入してくださいます。この主の使いを通して「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」(20節)と言われます。なぜなら、マリアの胎に宿っている子どもは「聖霊による」のであり(20節)、彼女と結婚することは「神の正義」に適うことであったためです。おそらく、これはヨセフの頭の中には全くなかったプランであったでしょう。このように神様は、私たちが考えるものとは全く異なるご計画を私たちに示してくださるのです。私たちが葛藤している時、主の方から私たちに現れてくださり、私たちに語りかけてくださるのです。どうぞ、私たちもその声をしっかりと聞かせていただきましょう。

3)神が私たちとともにおられる

 ヨセフは、この主の御告げを通して、「神がともにおられる」ということがわかったことでしょう。なぜなら、この出来事は、決して人の手によるものではなく、主の御手の中にあったことだからです。
 この「神がともにおられる」という体験は、私たち一人ひとりのものともなります。なぜなら、クリスマスにお生まれくださったイエスの名は「インマヌエル(=神が私たちとともにおられる)」であるからです(23節)。実際にイエス様が「インマヌエル」と呼ばれたことはなかったでしょう(少なくとも聖書には出てきません)。しかし、これはイエス様のご生涯を通して、私たちに与えられた希望です。イエス様を信じて歩むとき、いつも「神が私たちとともにおられる」と告白し続けることができるのです。それは、神である方が、私たちと同じ肉体を取り人となられたためです。力ある方が、愛なる方が、私たちの味方となってくださったためです。
 このインマヌエルの事実が、ヨセフに安心を与え、彼の決断を変えます。彼は「眠りから覚めると主の使いが命じた通りにし」たのです(24節)。「神が私たちとともにおられる」という希望によって、私たちの一つひとつの信仰の決断が導かれていくのです。

 このクリスマスのとき、救い主イエス様を通して、一人ひとりが、「神が私たちとともにおられる」(インマヌエル)という希望をいただこうではありませんか。