金言
「主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。」 (ルカの福音書1:54) 

説教題 「あわれみを覚えておられる主」
聖 書 ルカの福音書1章46~56節
説教者 栗本高仁師

 待降節第1週で、救い主誕生の根底には「神の熱情」があると見ましたが、同時にそこには「主のあわれみ」が満ちあふれています。

1)私に目を留めてくださる主

 神の母となったマリアは、自分自身の身に起こったことを覚えて、神をほめたたえます(46-47節)。なぜなら、彼女は自分自身のことを「卑しいはしため」と思っており、そのような者に神は「目をとめてくださった」ためです(48節)。神の母として選ばれることがどれほど大きなことであるかを、彼女は正しく理解していたのです(49節)。だからこそ、「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(48節)とまで言い得るのです。「私の救い主である神」(47節)や「力ある方が私に大きなことをしてくださった」(49節)と言っていることからわかるように、マリアは「主のあわれみ」を「私の体験」として受けとめています。そのように受けとめていくことは、私たちにとっても非常に大切なことではないでしょうか。確かに、救いはすべての人のために開かれています。しかし、その事実が時に「私の救い」をぼかしてしまうことがあるのです。神様は、100%の眼差しで「あなた」を見ておられます。この「主のあわれみ」を覚えつつ、どうぞ私たち一人ひとりも「私の救い主」としてイエス様をお迎えいたしましょう。

2)私に起きたことが、すべての人に及ぶ

 マリアは「主のあわれみ」の体験を自分のものとして理解していました。しかし、彼女は「主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます」(50節)とうたいます。つまり、「主のあわれみ」は、特定の時代、特定の人だけのものではない、ということです。この先、救い主を信じて歩む一人ひとりに、主のあわれみが注がれ続けるのです。ここに、マリアの福音理解があります。それは、「私に起きたこと」は「世界のすべての人に起こる」という信仰です。だからこそ、マリアは「主はその御腕で力強いわざを行い、…低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ…ました」(51-53節)と、まるですでに起こったかのように言い切るのです。確かに、昔も今も「低い者が低いまま」「貧しい者が貧しいまま」という現実はあります。その現実を受けとめることはもちろん大切なことです。しかし、私たちキリスト者に委ねられていることは、現実を見つつも、「主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます」という信仰の目を持って、世界を見ていくことではないでしょうか。「主のあわれみは」救い主イエス様を通して、文化を超え、時代を超えて、広がり続けることを覚えさせていただきましょう。

3)主の忠実さのゆえに

 マリアは最後に、この救い主の誕生は、「主があわれみを忘れておられなかった」ゆえであることを賛美します(54-55節)。これは、神が誓われた契約(約束)をずっと覚えておられた、ということです。救い主誕生は700年前に預言されていたことでしたが、そこからさらに遡ること1300年前(イエス様誕生の約2000年前)、神様は一人の人と契約を結んでおられたのです。その名はアブラハムで、彼の子孫を大いに増やし、彼の子孫によって、全世界は祝福を受けるという約束をされていたのです(創世記22:16-18)。神様は、2000年も前に約束された「アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに」いてくださったのです(55節)。その間、人間は神との約束を忘れ、主との契約を守れませんでした。しかし、主は「ご自身の名にかけて」、この約束に忠実であられたのです。私たちは、この「主の忠実さ」にいつも支えられています。だからこそ、私たちの救いは揺るがず、私たちの希望は失望に終わることはありません(ローマ5:5)。私たちは、この契約に忠実な主を、このあわれみをいつまでも覚えておられる主を、まっすぐに見て歩みを進めさせていただきましょう。